親鸞聖人は、妙好人のことを「信心の人を釈迦如来はわが親しき友なりとよろこびまします。この信心の人を真の仏弟子といへり、この人を妙好人とも、最勝人とも、希有人とも申すなり。」と仰ってます。

第86回 鍋嶋証子さん 下

天草の金子岩彦さんは伊藤康善先生の時代から仏法を聞かれており、お父さんである若栄先生の法友でした。金子さんが余命3ヶ月となったときに、どんな心境なんだろうと気になります。剛信な方なので、死ぬ前も安心なのかなと想像します。そこで、自分はどうなのか? 喜ばしてもらったと思っても、もや~とします。

あの時聞かせてもらったからと思っても、判らないから考えてしまいます。堕ちる身なのに、登っていこうとするから不安なんだなと思い至ります。自分はウソ、だから仏様は真実なんだと腑に落ちました。

2012年9月の親鸞聖人750回大遠忌での記念パーティでは、うちの家族とAKBを踊ってもらいました。そのために私の自宅で合宿までしました。朝起きて歯を磨いていたら、証子ちゃんが普通に洗面所に入ってきたのにはビックリもし、感心もしました。

翌月の10月に、なんと「NHKのど自慢」に出演したのには、驚きました。あれだけさらけ出して全国放送で歌えるとは! ほとほと感心しました。家族みんなで生中継を見て、爆笑、また爆笑でした。

4年前に結婚し、3才の法弘くん、1才のりんちゃんに恵まれています。法弘くんは、私の法名の釈弘法(しゃくぐほう。こうぼうではありません)に似ています。旦那さん、ご両親、妹さんご夫婦とも、皆さんにとてもよくしてもらっているそうです。人徳でしょう。

最近は、子育てと4月から小学校で仕事を再開したこともあり、なかなか法座に参加することができません。コロナ禍でZOOMでの参加が可能となり、メーリングリストにも書き込んでいます。自分だけの味わいだけで満足していては、もったいないと増井信先生、求道仲間だった金山玄樹さんに言われています。自己満足では、せっかくの仏法を小さくしてしまうと、証子ちゃんの現在の心境です。

第85回 鍋嶋証子さん 上

熊本市の証子ちゃんです。同市の本願寺派蓮光寺で生まれ、2022年に39才になりました。学生時代、華光会館に下宿していたお父さんの厚東若栄先生は、食事中も仏法の話しかしないような方でした。小学6年から華光会の子ども大会に参加するようになります。夏休みに行われる合宿で、キャップファイヤーなど楽しい行事などがあります。お陰で、全国にお友達もでき、毎年の楽しみとなりました。

遠藤惟紗子さんと親友になり、惟紗子さんが求めている姿を見て、触発されます。高校3年まで毎年、参加しました。その後、京都女子大学に進学し、大学4年間と卒業後の小学校教諭で4年間、計8年間を京都で過ごします。その間、華光会館で求道します。ご本人によれば「ザ・求道」だったそうです。「どうしたら信心が得られるんだ」と求めていきます。いわゆる「信心決定病」です。

証子ちゃんが14年前に書いた「体験記」を読むと、前に出ての号泣念仏は数知れず。仏青のメンバーと競争のように求めていきます。そのうち、一人が獲信したようになって、その喜び方が尋常ではなく、うっとうしく感じます。その間も、ズーッと「どうしたら」が抜けません。

座談で自分の心境を話しても、ズレていると言われます。仏青のなかでの恋愛関係、人間関係でドロドロとなり、仏法とゴッチャになってしまいました。あの人には会いたくという醜い感情を見せつけられます。人間関係でいっぱいいっぱいになってしまいました。

ところが、松岡先生の座談で、求める心はいいと思っていましたが、それこそが仏敵だったと知らされます。全部いらなかったんだ。ジャマしていた。獲信とか喜びとか、自分にはそんなバーンとしたものはない。求道と思っていたもの、求道ごっこが終わりました。終わらざるを得ませんでした。自分が思っているような信心決定はない。あったとしても自分が作り上げたものだと知らされます。

第84回 吉田晃子さん 下

華光会で求道して20年経過していましたが、令和2年11月の華光大会で、奈良在住の北島登美子さんから「私の信心とはちがう」と言われます。自分でもそう思え、薄紙一枚はがれていないような気がします。

令和3年3月に増井信先生に「このままで本当にいいのでしょうか」とご示談をお願いします。信先生は「吉田さんのおられる立ち位置をしっかり見て、あとは聴聞するしかない」とだけ仰ります。「あー、そうか」と増井悟朗先生の小冊子『疑心よさらば』を改めて読みます。信先生の小冊子も改めて読んでみます。今までも何度も読んでいましたが、改めて読むと「これだ!」と気付きます。

疑い心はほっとけ、自分は自分で信心する方に向かおう。後生の一大事を、そんなこともあるんかと先に置いていましたが、私みたいな凡夫が仏になるとは、と地獄一定がわかり、肩の荷が降りたように感じます。阿弥陀如来に対して恥ずかしい。全てお手回しだったと知らされます。私一人の阿弥陀様に遇わせていただいた! まさにコロナ禍のなかでZOOMではなく、リアルのご示談で信心をいただかれています。

吉田さんは、華光会の法座でよくお会いします。コロナ前の聞法旅行にはよく参加されていました。江原の古い同行さんですので、信心はとっくに得られていると思っていましたが、20年にわたる聴聞の後、まさに前年に頂いたことを知りました。やはり阿弥陀様は生きて働いておられると実感します。聞いたと思っても、その後の聴聞がつくづく大事と思わさせられます。

令和2年9月の永代経では、次女の光(ひかり)が、華光会館で皆さまの前でお話しをさせてもらいました。父親に対する気持ち、仏法を聴くということは親に従うということで抵抗があったということに、とても共感され、光に「私もそうだったのよ!」と声をかけられたそうです。それも知りませんでした。

第83回 吉田晃子さん 上

兵庫県豊岡市日高町にお住まいの吉田晃子さんです。日高町の江原は70年ほど前、増井悟朗先生が布教に行かれ、念仏の火が燃えさかったところです。お姉さん、叔母(和田つや子さん)から、30代の頃から仏法を勧められていました。

吉田さんは看護師で通算32年勤めてました。58才で退職した際に、和田つや子さんが膵臓癌を発症し、お世話をします。華光会に行くことを勧め「念仏を頂かないと地獄だぞー」が遺言のようになります。

准看護師からのキャリアアップのため高校の通信教育を受けるようになりました。その卒論で「私の死生観」として和田さんのことを取りあげます。それを読んだ江原の剛心な早田節代さんから華光会に行きなさいと言われます。60才の3月に卒論を提出し、その年の5月に初めて一人で華光会館の永代経に参加します。

華光会館での皆さんの念仏の声に驚きます。東京から参加のご同行に、ここまで足を運んできたからには離さへんよと励まされます。もうちょっとでわかりそうな気がします。帰ってきてからの翌日、水道の蛇口をひねると増井悟朗先生の「地獄に堕ちるぞー」の声が聞こえました。そこで喜ばしてもらいます。これでいいんだと思いました。

しかし、そう思えたのは少しの間だけで、このままでいいんだろうかと不安になってきます。不安な気持ちを抱えたまま、2~3年経過します。増井信先生からは「吉田さんは縁他力(ご縁にあったことを喜んでいる)だよ。一歩でないと」と言われます。それから3~4年間は信先生を避けるようになっていました。

悟朗先生からは「いま死んだらどうするんだー」と前に出るように勧められます。法話のテープ、「親指のふし」などの書籍を読んで、私もこれで本願他力に入れたと思います。華光の法座に参加して20年ほど経過していました。しかし一昨年、奈良の北島登美子さんから「私の信心」とは違うと言われてしまいます。

第82回 植田明美さん

小中高と関西育ちですが、東京生活50年で関西なまりが全くない植田明美さんです。お母さんの植田ときゑさんからはズッと仏法を勧められていました。ときゑさんが亡くなった1年後の、今から7年前にガンを患います。治療のために自営のお店を閉め、一切の仕事から離れます。

その時に、忘れ物をした!と、華光会に連絡を取ります。瀧山真理さんが電話に出ます。お母さんのことはよく知っていて、東京支部が当番ということもあり、華光大会へ参加しました。そこで初めて瀧山さんと顔合わせしました。

林野会館での東京支部法座、築地本願寺での聖典講座と参加するようになります。石黒さんを始めとするご同行に潮のごとく、勢いよく導かれていきます。5年前の2017年には最後の空き一つに滑り込んで、北館道の聞法旅行に参加します。私はその時に初めてお会いしました。

コロナ禍での2020年の華光大会では、前半・後半と2グループに分かれての開催でした。前半と後半の繋ぎに企画行事があり、5つの募集企画から自ら選択しなければなりません。植田さんは二三代さんが企画した「阿弥陀さんと私」をコレ!っと選択します。2人ペアとなって、1人が阿弥陀様役となってワークをします。2022年3月15日に往生された砂田和子さんと、大谷理恵さんペアは号泣されスゴい盛り上がりようでした。

植田さんは瀧山さんとのペアです。自分が日頃思っている仏さんのことを話します。阿弥陀様役の瀧山さんからグイグイ引っ張られ、今までお母さんを仏様と思ってきましたが、「あなた自身の仏様は?」と尋ねられビックリします。「私の仏様と一緒にいる!」とピタッとはまります。そうしたら「私の仏様をお待たせして申し訳ありません」と、不思議にも合掌した手が離れなくなってしまいました。

病気をいただいたことにより、後生の一大事の解決をすることができました。日頃からご同行さんと連絡し合い、ご法座で会えるのが楽しみな植田さんです。ピカピカなものを頂いたと喜んでいます。

第81回 吉井瑠璃子さん

高槻市在住で、令和4年4月からご主人のお寺(浄土真宗本願寺派)の富山県に引越の予定です。増井悟朗先生のお孫さんになります。浅野聞子さんの次女です。

小学生の頃から、華光会の子ども大会、正月の修正会に参加していました。名古屋で生まれ育ちましたので、地元の家庭法座には母親と姉の3人でよくお参りしていました。名古屋造形芸術大学のデザイン科に入学します。

大学進学後、東京で開催された悟朗先生、増井信先生の公開講座がきっかけで、仏青大会、華光大会等に参加します。月に1回ほど、聴聞するようになりました。

大学3年のとき、華光大会の夜の懇親会で、信先生から「いま、どんな感じ?」と心境を尋ねられます。応えますが「100点にしたいところだけど、少し足りないかも」と言われます。そう言われたことが気になり、夜寝ているとき、ドキドキが止まりません。首元にナイフを突きつけられたような感じです。

次の日、信先生の分級(座談)において、「それでいいの?」「よくないんです。ハッキリした信心、しっかりしたものが欲しい」とグダグダして、スッキリしません。先生から「自分の心に宣言してみたら」と勧められます。言いたくない、口に出したくないと意地を張ります。しかし、勧められままに「自分の心に振り回されません」と宣言すると、千年の闇が破れてしまいます。つっかえ、はからいはいらなかったと、ストーンと腑に落ちました。

その後、本願寺の中央仏教学院の本科、研究科に各々1年、布教使になるための伝道院に半年通います。伝道院時代は、本願寺の晨朝勤行に毎朝、お参りしていました。お見かけしたことがあります。

本山で結婚式を挙げ、お子さんは3才と1才の2人。現在は、日常の中で真実の法とおそまつな自性の間でゆれながら生きるという味わいです。ゆれながらも不思議な法に戻らせてもらっています。

第80回 薄千恵さん 下

何をやっても苦しく、心がスッキリしません。一人でシクシク泣いている自分の姿が見えます。子ども、ご主人もいるのに苦しい。そんななか、39才の時に、生後数ヶ月のお子さんを連れて、華光会館の「壮年の集い」に参加します。

座談で山下和夫さんから「何が引っかかっているんだろうね。仏法は簡単なのに」と言われます。その言葉が帰ってからも、頭から離れません。伊藤康善先生の『仏敵』を読んでいるときに、アレッと思います。自分が思い描いていたものと違う。全ては自分が邪魔をしていたんだ! 涙が止まらなくなります。夜中でしたが、泣き叫んで「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と念仏を称えます。ご主人が驚いて背中をさすってくれました。

薄さんの体験記には「ああ、この私自身が仏敵だった。阿弥陀様に背を向け、自分が欲しい救いを、自分の中に見出そうと己の腹底を探し続けていた」とあります。

スッキリして不安がなくなります。自分のことがよくわかります。お聖教を読んでもサラーッと入ってきます。仏法を聞くということはこういうことだったのか。今度は、聞きたくて仕方がなくなってきました。

「私はいったい何のために生まれてきたのか」の答えがようやく分かりました。それは今生で仏法に出会うためでした。「地獄一定はこの私。まことのない私。その真実に出会えたのも、ひとえに阿弥陀様一人のお働きのお陰でした」

千恵さんは、以前に古代蓮の栽培を習っていました。1年かけて土から作ります。土を作るときには、いろんな物を入れて発酵させます。ボウフラが沸き、ものスゴい匂いがします。近寄れないくらい臭くなります。そこに美しい古代蓮が咲きます。横川法語の「濁りに染まぬ蓮のごとくにて、決定往生疑あるべからず」の法語が身に沁みます。

第79回 薄千恵さん 上

東京都立川市在住の薄さんです。前回の根岸さんの妹さんになります。小学3年時に、お母さんが乳ガンを宣告され、お父さんは肝硬変を患います。お父さんは曹洞宗系の駒澤大学時代に座禅を組みに、奈良のお寺に行っていたそうです。東京のビハーラ(末期患者に対する仏教ホスポス)で西光義敞先生に出会い、華光会館に行くようになります。

お母さんは10年間の闘病後お亡くなりになります。当時、20才で女子美大の学生でした。お母さんは「お父さんが言っていることは本当だから」と遺言します。そこでお父さんに相談すると、是非聞いて欲しいと、華光会東京支部の永田税理士の法座に参加します。泣いたり、笑ったり、暖かい会場で、自分のことを言ってもいい場所と感じます。

東京法座に時々参加するようになりました。同世代のカワテ・ローラさんとお友達になり、一緒に華光会館などについて回ります。4年ほど集中的にお参りしました。しかし、話の内容は全然分かりません。だんだんと行くのが辛くなってきます。行けば感想を求められるし、追い詰められるような感じになってきました。

23才で結婚し、就職をして、法座から遠ざかっていきました。27才のときに、お父さんが亡くなります。自分では父と同じ体験と思っていましたが、違うということに気付きます。喜びを聞いたことと思い込んでいました。実際は違っていました。

ローラさんが日本に来る度に、会いましょうとなりますが、会える場所が華光会館のみで、法座に誘われます。その頃は、JRの子会社で駅舎の設計などをする会社で、仕事に夢中になっていました。会社の先輩が自死したこともあって、カウンセリングの方に没頭していました。カウンセリングで解決できるのではと思います。感情は込み上げてきますが、ストーンと腹に落ちません。出産し、ご主人、お子さんと恵まれるけれども、何をやっても苦しくなってきます。

第78回 根岸良輔さん 下

平成11年の永代経の3日間で、松岡宗純先生から何度も、阿弥陀様のことを聞かせて頂きます。それでも「体験が欲しい」という根岸さんに、「まだ何かできるとおもっているの?、納得するような根岸君でないことを阿弥陀様はご存知でその上で、そのままでいいと言ってくれてはる」と松岡先生です。こうなったら「うん」というしかないかと「うん」と答えると、「”うん”などと言える根岸君ではないだろう。阿弥陀様が”うん”と返事してくれている」と教えてくれます。

説得されてしまったと感じて、帰りの車中で振り返ってみると、不思議なことにわかるもわからないもないな。全部自分の仕事ではなかったなと思います。なぜ今まで体験が欲しいとか、納得したいとか言っていたのだろうと、うれし涙の中で「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と称えました。

2週間ほどでその喜びも薄れ不安も出てきますが、”自分には全く力がない”と満足します。その後、教員採用試験に受かり、栃木県で採用され進学校の教員となって忙しくなり、華光会館から足が遠のきます。平成15年にお父さんが肝臓ガンでお亡くなりになります。当時の華光会東京支部長の古家さんの家庭法座に月1回お参りはしていました。

10年ほど経った平成23年に、工業高校に転任します。時間に余裕ができて再び華光会館に行くようになります。そこからは私も根岸さんを傍で見てきました。今回のインタビューで私よりも大先輩ということを知りました。

現在は進学校の佐野高校に転任となり、再び忙しくなりましたが、東京支部長としてご活躍です。コロナ禍で電話でのインタビューとなりました。

妹さんの薄千恵さんは、ご両親の病気により、同じく仏法を聴くようになります。次回はその千恵さんに登場して頂きます。

第77回 根岸良輔さん 上

根岸さんは、東北大学大学院を修了後、栃木県で県立高校の数学の先生をしています。2021年は年男で8月で48才になります。中学3年の時にお母さんが乳ガンを患い、10年間の闘病後、お亡くなりになります。

その間、お父さんは、肝硬変を患い、家族のために頑張ってきたのに、どうして自分だけがと追い詰められ、何度も自死しようとしたとのことです。現実を受け入れることから始め、近所の人に笑顔で挨拶できるようになり、仏法とは関係なしに、ガラッと変わります。

お父さんは、他の人もきっと同じ体験をした人がいるはずと禅宗の寺などを回ります。西光義敞先生の真宗カウンセリングに辿り着きます。そのご縁で京都の華光会館に行くようになりました。

根岸さんは病床のお母さんとどう過ごせばいいかと悩み、お父さんの姿を見て、華光会に救われる道があるのではないかと、平成9年、仙台から京都へ永代経の法要にお参りします。前日から宿泊し、増井信先生、孤杉英章先生からをお話しをして頂きます。

永代経に参加をしていた人たちが「人間に生まれてきた目的は仏法を聞くことだ」と言っていたことが強く印象に残ります。しかし、聞き開くことはできずに新幹線で戻ってきます。その年にお母さんはお亡くなりになります。亡くなる直前に「お父さんの言っていることは正しいよ」と道を示してくれました。

大学院修士課程中で、時間はあったので京都に通いだします。地獄行きだということは分かりますが、お父さんの体験が欲しくて求めている状態でした。

平成11年の松岡先生との座談で、3日間「納得するような根岸君ではないことを阿弥陀様は知っていて、そのままでいいといってくれるんだよ」と繰り返しお話しを頂きます。心が許さなくても「うん」と言うしかないかなあという気持ちになり、「うん」と答えてみます。