親鸞聖人は、妙好人のことを「信心の人を釈迦如来はわが親しき友なりとよろこびまします。この信心の人を真の仏弟子といへり、この人を妙好人とも、最勝人とも、希有人とも申すなり。」と仰ってます。

第73回 大坪逹也さん 中

華光の子ども大会に先生役で参加し、恒例の地獄のスライドが、たまたまその年は餓鬼のスライドでした。そこに食法餓鬼(じきほうがき)が出てきます。法を食べる餓鬼です。これはオレの姿だ!と感じます。このあたりが大坪さんの心の変わり目だったそうです。今でも自分は食法餓鬼と味わっています。

聴聞を重ね、お話は良く分かります。兄の舟本賢也さんからも「よう聞いとるな~」と感心されます。しかし、心がスッキリしません。この頃、仏青で西光義秀先生の厳しいご示談を頂き、帰りの新幹線の中で賢也さんに心境を吐露し悩みを打ち明けます。

聴聞してきて3年ほど経過しても、スッキリとせず、カラが割れません。34才、報恩講の懇親会で、有難い心境を話しますが、伊藤友一さんからは「ふーん」という反応しか返ってこず、その夜は眠れません。次の日、黒河達児さん、伊藤さんの分級に入ります。伊藤さんから「逹ちゃんどう?」と聴かれ、昨晩と同様の心境を答えますが「全然響かんのや」と言われ、追い詰められます。黒河さんからは「切羽詰まっているのは阿弥陀様の方やで」そして伊藤さんから「逹ちゃん、楽になったら」と勧められました。

それを聞いて、今まで何してたんやろうか、バカやったと感じます。バカになったことが嬉しく、念仏が止まらなくなりました。1週間ほどズーッと念仏が出続けました。華光会館のエレベーターから出てこられた悟朗先生に「バカでした。何にもありませんでした!」と涙と鼻水でご報告したところ、「そうか」と一言。しかし、先生は喜んでいらっしゃったそうです。

黒河さんは「達」の字が同じということで、可愛がられ、いつも黒河さんの「京都親聞」を大坪さんに送っていました。しかし、その念仏が1週間後、車を運転しているときに、ピタッと止まってしまいます。

2021年7月号

第72回 大坪逹也さん 上

岐阜県高山市の大坪さんです。昭和38年生まれです。既にこの「妙好人」に登場した舟本民子さんが母親、舟本賢也さんが兄となります。東勝廣さんは叔父さんになり、法が熱い御一家です。
逹也さんは当初は仏法に興味がありませんでした。20代は人生が楽しく、登山・カヌーに夢中で遊びに行きたいばかりでした。30才の頃、舟本一家が華光会に出会います。

舟本家の家庭法座で増井悟朗先生を招かれます。そこに栗田さん、伊藤友一さんも名古屋から参加していました。福井の尾崎牧男さんの奥様、華澄さんのご示談となり、真宗は厳しい、という印象を受けます。

それでも興味は湧かず、舟本民子さん達が京都にお参りするときに運転手として行っていました。当時はいいバイトになりました。最近は運転手手当はなくなって寂しい限りだそうです。

ご法座を聴いてもよくわかりませんが、悟朗先生を見て「本当のことを言っとるな」と直感し、この人は本物だなと思います。しかし、座談となってもしゃべれません。今の姿からは想像もつきませんが・・・

3年くらいは、その状態が続きます。高山での家庭法座で、瀬上廣子さんのご示談の場面で、大坪さんが発言しようとすると、悟朗先生から「あんたはしゃべらんでいい!」とスパッと切られました。オレは聞けんな、見捨てられたと感じると同時に、阿弥陀様に見捨てられたと思います。

華光会は辞めようと思っていた夏に、ボーイスカウトの指導者をしていたこともあって山科別院で開催された華光子ども大会に、悟朗先生から意を受けた増井信先生よりお誘いがあります。遅れて夜に到着したとき、高校生の金山玄樹さん兄弟が山門まで迎えに来てくれていました。中学生の厚東証子ちゃん、教子ちゃん姉妹も参加していました。子どもでも熱心に仏法を求めているのにと、情けなくなってしまいます。

2021年6月号

第71回 岡田美智子さん 下

北陸支部の立上げ法座に、瀧山さん運転の増井悟朗先生の車に同乗させてもらいます。座談で「仏さんの苦労もわかるけど、イヤなものがボロボロでてきて、讃嘆できない」と言うと、舟本賢也さんから「そら、岡田さん全然聞いてへんな」と言われてしまいす。

悟朗先生から黒い心、白い心、暗い心の三つの違いがわかるか?と尋ねられますが、日頃よく聞いていることなのに説明できません。「ちょっと仏さんに水くさいな。謝んなさい」と言われます。南無阿弥陀仏はちょっとは出るけど、懺悔が足りんと言われます。「じゃじゃ盛りでいいですか?」「じゃじゃ盛りのままでいいんや」と言われ、思いっ切り念仏します。悟朗先生は「あんたも一味やな」と仰いました。

京都に戻って、ご主人に話をするとえらく怒られました。感情に動かされ、聞いたつもりになっていると。華光誌を読んでも誌上法話は難しくてわからん。体験記を読んでは自分に合うところばかりを探していました。不思議な体験を求めていました。そんな時、黒河達児さんから「不思議な体験がなかったから良かったな。幸せしたで」と体験を握らなくて良かったと言われました。黒河さんが自宅に2度来られ、お話を頂きます。

その黒河さんも、1年後の聞法旅行の最終日に危篤の知らせがあり、夜、病室で意識の無い黒河さんが高熱でうなされ、増井行子夫人から「恩徳讃」を歌ってあげて!と頼まれ、歌うことしか出来ませんが、歌う時だけピタッと静かになられていました。翌日の明け方に往生されました。

半年ごとに入院していたご主人も、3年前にお亡くなりになり、華光会館には行事ごとに自転車で、一人でお参りしています。華光会の本部法座では毎回、お会いします。2021年の報恩講では、私の分級に固定メンバーで参加されていましたので、改めてインタビューさせて頂きました。

2020年5月

第70回 岡田美智子さん 上

京都市の岡田さんです。自宅から華光会館まで徒歩圏内です。33才で見合い結婚します。41年前のことです。ご主人が華光会にお参りしており、結婚相手に身体が丈夫な人、仏教とご縁がない人が希望だったそうです。黒河達児さんが仲人で、悟朗先生も参列です。結婚後は、黒河さんの自宅に遊びに行っては奥さんにお世話になっていました。

秋の仏青大会の後に、新婚家庭に小枝夫妻、松岡夫妻などが立ち寄ります。皆さん、もの凄く楽しそうに仏さんのことを話しているのが印象に残り、一人で増井悟朗先生の「婦人講座」に参加してみました。その時は、詳しいことは判らなかったけれども、南無阿弥陀仏は死んだ人に言う言葉かと思っていたら「寿命無量、光明無量の阿弥陀様から死なない命をもらう。あんたにはあんたに合うた仏さまがついておられる」と聞き、エーッとビックリします。

ただ、その時はそれだけで、ご主人のお母さんも華光会館にお参りしており、家族円満のために聴聞に行くようになりました。だんだんとお母さんの介護が大変になり、黒河さんの支部新聞「親聞」を読むだけとなっていました。その間も、華光会館の近所ということで、通院中の悟朗先生や、甘露ちゃんを乗せベビーカーを押している信先生にときどきお会いします。「元気にしてはりますか?」と優しい言葉をかけられます。

信先生からの平成15年の年賀状に「ふらーとお越しください」と書いてあり「仏法を聞かへんかったら地獄に行かなならん」と思い、報恩講にお参りします。自分では仏さんのことを聞いているつもりでも、座談では今生ごとばかりです。わからず苦しんでいる岡田さんを見て、華光会館の階段の踊り場で、九州の有田さんから「岡田さんは三千大千世界から見放されてる」と声をかけられ、家に帰って大泣きします。長男が「いじめられたんか?」と心配しますが、ご主人はニコニコしています。

2020年4月

第69回 表口稔さん

三重県在住、2021年で63才の表口さんです。京都産業大学時代に京都市バスの広告を見て、S会の講演会に行きます。実家の三重県の方で20代の5年ほど活動していましたが、イヤになってプツッと行かなくなりました。

41才の時に、宝島社からの『「救い」の正体。』を読んで華光会のことを知り、華光会館にアポなしで行ってみます。1回目は途中で引き返しましたが、2回目に増井信先生に対応して頂きます。その年の12月に東海支部の法座に参加し、伊藤友一さん、栗田さんにお会いしました。栗田さんにはとても親しくして頂き、お世話になります。

2ヶ月に1回の名古屋での法座に参加するようになります。三重県からは1時間超かかり、駅に着いては苦痛を感じて、何度かそのまま帰ってしまったそうです。1年に1回くらいは京都の華光会館にも顔を出します。

50才になって久々に華光会館の法座にお参りします。私にとっても忘れもしない1階の事務室での分級でした。自己紹介のときに、表口さんは「京都は久々」と言われ、泣かれています。改めて伺うと、仏法のことではなく自分の常日頃が思うようにならなくて悔しくて泣いていたそうです。

当時は私も求道中でしたので、自分のことで頭が一杯でしたが、気がつくと、今泣いていた表口さんが回心しています。その時の謎を、今回のインタビューでお聞きしました。

隣りに座っていた舟本賢也さんが表口さんの耳元で「表口さん以外の皆は救われるけれども、表口さんだけは救われんよ」とささやいたそうです。聞こうとして聞いた訳でもないのに、頼みもしないのに耳に届いてきました。エーッと、呆然です。自分の思いに関係なく、聞いてしまった!

それからは、ご法を勧めている人の気持ち、求めている人の気持ちが分かるようになります。その場で求めていた私も唖然です。こちらは毎回、法座に出て求めているのにと、ショックでした。表口さんにお会いすると、いつもその時のことが思い出されます。

2020年3月

第68回 平阪彰さん 下

後生の一大事がわからず、海面で溺れているような状態です。先生からは海の底の底だと言われます。自分の力では手も足もでない。浄土に参りたいと思いますが、仏様をたよりにするしかない。救ってもらうしかない。

自分が海の底にいるとわかった時、仏様との関係がわかりました。仏様は私を食べて下さると言われる。私が仏様のまな板に乗ることだ。身につけていることを一つ一つ捨てていく。最後は業だけが残る。業を背負って南無阿弥陀仏のまな板に乗る。家、家族、全てを失ってまな板に乗って食べて頂くと味わいます。

そうなると、私ではなくなる。私でない私に作りかえて下さる。するとどうなるのか? 材料にはなることができる。それが今の平阪さんの喜びです。

更に平阪さんのお味わいです。私は百姓。田んぼに有機肥料、化学肥料をまきます。牛糞、鶏糞なども入れ、立派な土になります。土は肥料を入れるための袋で、それにより植物は育ちます。仏様の力が汚い牛糞である私に働いていて下さる。

平阪さんは2020年2月に華光会のインド仏跡旅行に行きました。コロナ騒ぎでギリギリのところでした。インドは凄かった。混沌とした世界で、活気が溢れていた。お釈迦様が『無量寿経』を説かれた霊鷲山では、丁度、夕陽が沈むところで、とても感動しました。

昨年の華光大会での企画行事では、お互いに二三代さんのワークショップ組となり、平阪さんと私のペアとなって、一方が阿弥陀様となって、対峙しました。私が阿弥陀様のときには、平阪さんの質問に対して、ビシッと(一応)答えさせて頂きました。

平阪さんが阿弥陀様のときには、私の日頃の慶びの感謝と、今後の決意を述べさせてもらいました。他のペアでは、獲信する人あり、号泣しあうペアありで大盛り上がりとなりました。

2021年2月

第67回 平阪彰さん 上

1950年生まれで2020年で70才の平阪さんです。飛騨高山の高校を卒業後、日本電信電話公社(現在NTT)に就職します。55才からお寺での「正信偈を読む会」に参加していました。国府町(現在高山市に編入)の年1回発行の機関紙に「何のために生きているか」の題で随筆を書きます。

その文章を舟本民子さんが読んで、法座に誘わなければと思います。平阪さんの奥さんが民子さんから民謡を習っていた関係で、奥さんを通して法座に誘われます。それが60才のときでした。その一年くらいまえから、仏様は私のようなものを呼んでくださっているとどこかで思っておりました。そう思うたびに、胸が締め付けられ呼吸が苦しくなってきます。その年の華光会の「壮年の集い」に参加します。

増井悟朗先生の分級で同じく高山の大坪逹也さんが司会でした。念仏を称えて号泣します。しかし、大泣きしても何も変わっていないことに気付きます。念仏だけは出るようになりました。ナチス強制収容所体験をつづった『夜と霧』を読み、何の為に生きているのかを問い続けても無駄なことかと思えてきます。「人生があなたに期待している」ことを考えなさいとありました。その「人生」を「仏様」に置き換えてみて、転換します。

翌年1月の報恩講で増井信先生のご法話で三信は仏様の心ですと聞きました。そこでハッとします。獲信するのは、私の気持ちは関係なく、仏様の呼び声にハイと返事するだけだと、素直にハイと返事ができました。その時の松岡宗淳先生の分級で、ハイと返事できましたと報告します。何か印しがあるんじゃないかと2~3ヶ月考え続けましたが、お前の心は何も関係ない、何かをみつけても何も関係ないことだと判らせてもらいます。

しかし、後生の一大事がわからない。モヤモヤしています。現在地を知りなさいと言われます。

2021年1月

第66回 松岡稜季さん

京都文教大学4回生の稜季(いつき)ちゃんです。来年、大学院進学予定で、心理士(カウンセラー)を目指しています。兵庫県の日高町、現在は市町村合併により豊岡市の出身です。谷本朗さんのご長女です。日高といえば、華光会の名物妙好人を輩出した法の厚い土地柄です。

稜季ちゃんは3才の頃から日高法座に出て、お父さんのひざの上で大人しく座っていたので、珍しい子やと感心されていました。小3~中3まで華光会の子ども大会に、毎年、楽しみに参加していました。仏法が話せて、言いたいことが言える座談が好きだったそうです。地獄のスライドを見ても、実感がわかず、全然怖くなかったそうです。

高校生になって部活で忙しくなり、一時、ご縁が遠のきます。京都の大学に入学し、1回生の3月に華光会の事務局にバイトで働くようになって、同月の日高支部法座に参加します。お父さんの朗さんが20才で信心を獲ていたので、自分も20才までという目標があったそうです。19才になっていました。

日高法座で聞けると思っていたところが、聞けずに翌月4月の永代経に参詣します。2日目の懇親会で、朗さんに押し出され、増井信先生に「わかりません」とご示談します。信先生は阿弥陀様に相談しなさいと言われ、仏壇に向かいます。横では朗さんが「ごめんなー」と謝っています。周りにいたご同行も各々お勧めになります。

いつきちゃんが「今のこころのまま称えてもウソだ」と言うのに対し、信先生の「どこまでも私にはウソしかない。南無阿弥陀仏だけがまこと」のお導きに、号泣念仏となって、念仏があふれ出ました。その後、いつきちゃんの信心は、ご本人の弁によれば、喜べないことに疑問を感じ、崩れまくっているそうです。最近は、私は変わらんもんやと気付かせてもらっています。

今年の永代経では信仰体験発表をされました。分級では、年配のご同行から「若いのにどうして仏法を聞いているの?」と尋ねられ、「本当のことが聞けて嬉しいから」と即答するいつきちゃんでした。

2020年12月

第65回 梶谷洋一さん 下

高山での法座の最中、昼過ぎに京都に帰ろうとしたところで、なんと増井悟朗先生が「帰るのか。それならお見送りをせんとな」と出てこられます。梶谷さんと井上さんが車に乗って出発しようとすると、悟朗先生がニッコリ笑って片手を挙げて「ご出棺でーす」。

車の中で、ゲンの悪いことを言われるな~と話していたら「ちょっと待てよ」となります。意味の無いことを先生が言われるだろうか?「言わない」。どういう意味だろうかと考えます。クネクネの山道で今にも落ちそうです。沈黙の後、井上さんが顔をこちらに向け、「おい、先生は『お前たち、明日のことを気にして早く帰ろうとしているが、本当に無事に帰れると思っているのか?』と言いたかったのと違うか?」。

「そうや、その通りや!」。真っ逆さまに地獄に堕ちていく自分の姿が見えました。井上さんと二人してパニック状態になります。「エライこっちゃ! 堕ちていく!」となります。所詮、自分は堕ちていくしかないんやと自他力の廃立がたちます。この時の恐怖は、何年経っても忘れることができませんでした。

最近は、梶谷さんは私の分級によく参加され、お味わいを聞かせて頂いていますので、今回のインタビューをさせて頂きました。全ては始めに悟朗先生ありき、だったそうです。最後に、この原稿のやり取りのなかで頂いた、梶谷さんご自身の文章です。

「考えてみると5年のブランクも決して無駄ではなかったと思っています。悟朗先生はよく『こっちが仏を忘れることがあっても仏は決してこっちを忘れることはない』と仰っておられました。この私の底無しの罪業の底に飛び込んで下さったのですから、どこに行くのも一緒なのは当然ですね。映画『ベルリン天使の詩』のピーター・フォークのようです『見えないが、いるな」という感じです。 南無阿弥陀仏」

2020年11月

第64回 梶谷洋一さん 上

京都府伏見区出身、現在は宇治市在住の梶谷さんです。1958年生まれで2020年現在、61才です。華光同人の井上頼子さんのご子息典之さんと20代の頃からお友達でした。

梶谷さん37才のときに、典之さんから11月の華光大会に誘われます。仕事の都合で最終日だけの参加でした。そこで増井悟朗先生のご法話で後生の一大事、宿善を聞き、エーッとビックリします。その後の全体座談で、悟朗先生に突っかかっていったそうです。「ご法話のなかで「人間は糞袋」と言われていましたが、確かに汚いところはあるが、それを隠そうとするのは当然ではないですか?」

その質問に対し、逆に「なんでや?」と先生から問いかけられます。まさか自分に質問が来るとは思っていなかったので、なんでと言われても・・・と、言葉をなくします。そこで一言「こわいのか?」と聞かれます。その時、手のひらは汗ビッショリでした。そのとおりだったから・・ コテンパンに「ア~やられた」と思ったのと同時に、「この人に間違いにない」の意を強くします。

それまで怖いものはなかったそうですが、「この人には勝てない」と怖いものができました。大会数日後のファミレスで、井上さんから「宿善あるやないか」と言われ「あるのか?」と問い返すと、「悟朗先生があれだけ言ってくれたのだから無い訳がない」。

更に「仏さんは自分の横を指さして、ここ『お前の場所はここだぞ』と言うてくれているんやないか」と言われ、梶谷さんの頭の中でビッグバンが起こりました。「あっ、そうであったか! 仏様の本願とは俺を仏様にすることか。これはエライことや!」と、その夜は嬉しくて、念仏が出て止まりません。

後からふり返ると、この時は、まだ縁他力でした。次の年の夏に高山での「壮年の集い」に井上さんと参加します。一泊して、翌日の仕事に差し支えるので、法座の途中で帰ろうとします。そのとき悟朗先生の神対応ならぬ仏対応が炸裂します。

2020年10月