
これだけ生まれがたい人間界に生を受けたのは、生死の繰り返し、苦しみの繰り返しに打ち止めをするためであるとお釈迦様は説かれます。しかし、私たちの生活、人生はどうでしょうか。
煩悩にまみれた生活をしているといいましたが、お釈迦様は同じく『雑阿含経』に一人(いちにん)四婦(しふ)のたとえを説かれています。これは、私たちの人生の実相をたとえたものです。悟朗先生の『親指のふし』にも載っている話です。法話をさせて頂くにあたって、『大正大蔵経』の2巻に載っている漢文を自分なりに書き下してみました。『大蔵経』では1頁にも満たない短いご説法ですが、さすがにお釈迦様がお話しされていることですので、深いです。まず
「是の如く聞く。一時、佛、舍衞國に在りて祇樹給孤獨園(ぎじゅぎっこどくおん)において、佛、比丘、比丘に教を受けて聽かしむ」
阿難はこう聞いた。ある時、お釈迦様は、インドのコーサラ国の首都である舍衞城の祇園精舎において、仏陀は仏弟子たちに教えを授けて聴かせられた。
「佛、便ち説く。是れ比丘、人、四因縁有り。貪愛に輕重有り、是れ從り道を離る」
お釈迦様は人は四つに因縁があるとされます。貪愛に軽い重いがある。ここで貪愛とは、むやみにほしがること、自分の都合に合うものを際限なく求めようとする心です。お釈迦様は四つの執着している貪愛を譬えで説かれます。
「比丘よ、譬う。一人、四婦有り」。喩えて示そう。一人の男が、4人の婦人を持っていた。今風にいえば、正妻に2号さん、3号さん、4号さんを持っていたということです。お釈迦様の喩えでは、4人の婦人を持っている男の話です。
「第一婦、夫、重き所と爲す」として、第一夫人を最も大切に思っていました。「坐す起す行歩する動作する、臥す息む、未だ曾て相離れず」と、座るにも、起こすにも、歩くにも、動くにも、未だかって相離れずで、常に一緒でした。
「沐浴(もくよく)」風呂に入るにも、「莊飾」化粧するにも、「飯食」ご飯を食べるにも、「五樂」五欲の快楽、五欲とは財欲、お金・財産に対する欲、色欲、性欲ですね。食欲、美味しいものを食べたい、旨いものを飲みたい、腹一杯食べたい欲です。名誉欲、人から褒められたい、尊敬されたい、重んじられたい欲です。睡眠欲、いくらでも寝ていたい欲、歳を取ると早めに目が覚めてしまって困りますが、昼間に寝落ちしてしまいます。私の場合は、映画館に座ると必ず寝落ちします。
これら、風呂、化粧、食事、五欲にたいし「常に先に之を與す」として自分より先に婦人を優先させます。「寒さ、暑さ、飢え渇き順摩し視護る」で、寒いといっては暖かくし、暑いといっては涼しくしてやり、腹が減ってはすぐに食べさせ、ノドが乾いたといってはジュース、紅茶、珈琲、あるいはお酒で潤してやります。「順摩し視護る」で、過ごしやすいようにさせ、見守ります。「其の欲する所に隨い」とそのしたいと思う心のままに従って、「未だ曾て諍を與えず」と、いまだかつて争いを与えたことがないということですから、奴隷のように仕えたと言ってもいいくらいに大事にした婦人、奥さんです。
次に第二の婦人は「第二婦者(は)、坐す起すと言えば談じ、常に左右に在る」と、座る、起きるといえばそれに応じてお話しをし、常に身近におらせます。「得之者は喜び」と、心にかなえば歓び、「得ざる者憂う」で、心にかわなければ憂いて、仲がいいときもあれば、仲が悪いときもあります。「或は老病に致る」で、あるいは年を取って衰え、あるいは病気になったりします。「或は鬪訟(とうしょう)に致る」で、あるいは喧嘩になって争うこともあります。第一の婦人に比べれば、普通の夫婦関係のような感じです。
(つづく)