
「たかい山からお寺をみれば、御恩とうとやたからやま、たから山には足手をはこぶ、むなしかえりをせぬがよい」
と歌われます。蓮如上人は、この法に出会っても聞き開かなければ、宝の山に入って、手を空しくして帰るようなものだと仰いました。阿弥陀様からの宝は、銀どころから最高の金、ゴールドを頂くようなものです。金地金は10年前はグラム5千円だったものが、今ではグラム1万2千円を超えています。しかし、阿弥陀様は、今生から後生までをお救いで、金地金の比ではありません。今生で法を聞かなければ、宝の山に入って手ぶらで出ていくのと同じです。
「まことじんじつ親さまなればなんのえんりょがあるかいな」
瀧山さんの感話で、お仏壇の前で寝転んでから話をされました。さすが瀧山さんです。親の前だから、何の遠慮もありません。うちも娘たちが孫を連れて実家に、ほぼ毎日のようにやって来ては、見事なほどに食べ散らかし、風呂入って帰ります。時には泊まっていきます。
「おもうてみなんせよろこぶまいか まるのはだかをしたてどり、どんざきるともおいわれきけば きぬやこそできたこころ」
十功の昔から待っておいででしたので、阿弥陀様が喜ばれています。ボロを着ようが、まる裸であろうが、おいわれを聞けば、絹や小袖を着たような心だと言われます。そして、「きちがい婆々といわれしわれも やがて浄土のはなよめに」。周りから散々「気狂い婆々」といわれた自分も、死んでいくときは、浄土の花嫁になると喜んでおられます。
この歌を見た博多の仙崖和尚は、
「信を得し人のよろこぶ言の葉は、かなにあらわす経陀羅尼なり」
と詠まれました。信心を得た人の歓びの言葉は、かな文字にあらわした経典であると驚いておられます。仙崖さんが住職を務めた聖福寺は、博多駅前にあります。多分、六連島にも行ったのでしょう。仙厓和尚は禅宗の人ですが、浄土真宗は僧侶に限らず、門徒のなかでも妙好人を輩出し、他の宗派にはない特徴があります。私から言わせると、それだけ厳しいともいえます。僧侶も門徒も、阿弥陀様の前では横一線。僧侶だからといって偉そうに威張ることもできませんし、門徒だからといって卑下する必要もありません。真宗は聞きそうもなきものが聞くと言われます。逆に、聞かなければならない立場の僧侶が聞けていないと、『御文章』にもあります。聞けば僧侶であってもなくても、みな御同行なのです。
「ある年の御正忌報恩講」
弥陀のお慈悲を聞いてみりゃ、きくよりさきの おたすけよ、聞くに用事は さらにない、用事なければ 聞くばかり、聞けば聞くほど 底ふかく、不思議でならぬ この御慈悲
「弥陀のお慈悲を聞いてみりゃきくよりさきの おたすけよ」
と、自分が求めているつもりであったが、いざ聞かせてもらうと、阿弥陀様から先手のお助けだった。称名も信心も阿弥陀様から回向されたものだったと知らされるのです。そして
「聞くに用事は さらにない 用事なければ 聞くばかり。聞けば聞くほど 底ふかく 不思議でならぬ この御慈悲」
と慶んでおられます。凡夫の聞くに用事は無い、用事がなければ聞くばかり、華光誌83号2号の巻頭言で、「獲信は聞法のスタート」と題し書かせて頂きました。聞かせて頂いてからが聞法のスタートです。聞き誤りもあります。勘違いもあります。後生は一大事ですので、聞き損なわないために、よくよく聞かせて頂けなければなりません。聞けば聞くほど、不思議、不思議と聞くばかりです。頭で聞くのではありません。身体で聞かせて頂かなければなりません。この身をかけて聞かせて頂きます。
つづく