
「領解すんだるその上からは ほかの思案はないわいな。ただでゆかるる身をもちながら おのが分別いろいろに おのが分別さっぱりやめて 弥陀の思案にまかしゃんせ」とお軽さんは言われます。自分の分別をサッパリやめて、弥陀にまかせなさいと。吉貞翠江さんの信仰体験では、いろいろと自分で思案していた60年間は、なかなか聞き抜けませんでしたが、自身の中で疑問が起こり、三田さんの「堕ちるんですよ!」の一声に、「あー、堕ちるんか」と届き、「助けるのは、仏さんの仕事ですよ!」で、ひっくり返られています。自分で自分を助けようとしとった、大間違いであったと知らされています。助けるのは阿弥陀さんのお仕事です。自力に励んでいる人は、その仏様の仕事を横取りしているようなものです。「弥陀の思案にまかしゃんせ」です。
世間事の会計・税務の世界でも、専門家であるこちらに対して、「あーだ、こーだ」と要求をする人や会社はうまくいきません。素人がいくらネットで調べても、智恵の部分がありませんので、うまくいかないのです。今生ごとでさえそうです。救う専門家の阿弥陀様の頭の上で思案していていも、どうにもなりません。
自分の体験からも、他の人の求道の過程をみていても、自分を「たいしたモノ」と思っている間は、阿弥陀様の声はなかなか届きません。先回りして、あーでもない、こーでもないと言っていますが、どうにもなりません。聞ける自分ではなかったと頭を下げさせて頂くだけです。先ほど、悟朗先生の一言により聞かせて頂いたと言っていましたが、自分は聴聞を続けていけばいつかは聞けると思っている間は聞けませんでした。聞かせてもらったときは、何故か、これは百座、千座聞いても聞けないなと思えました。その後の座談会で、聞かせて頂きました。
「わしがこころは荒木の松よ、つやのないのをおめあてよ」と言われます。自分の心は、松のようにねじ曲がった荒い木のようなもの、つやのないとは、いいところもないけれども、それが阿弥陀様のお目当てです。私の場合は、19歳のときに後生の一大事を知らされましたが、半年ぐらい経った頃、下宿で昼寝をしていた時に、夢を見ました。自分の寝姿を空中から見ていて、あまりに醜い姿にビックリしました。いかに自分で自分を見るときに欲目で見ているかを思い知らされました。しかし、そんな自分が阿弥陀様のお目当てです。
そして、「きのう聞くのも今日またきくも、ぜひにこいとのおよびごえ」と言われました。親鸞聖人は、南無阿弥陀仏の南無は帰命であり、帰命は本願招喚の勅命であると仰っています。阿弥陀さまからの来いよとのお喚び声です。そのお喚び声を聞かせて頂くのです。
「重荷せおうて山坂すれど、御恩おもえば苦にならず」。六連島は、高いところで少し平地があるぐらいで、坂だらけです。仕事は農業ですから、荷物をかかえて上り降りしなければなりません。お軽さんは阿弥陀様の御恩思えば、苦にもならんと言っています。求めているときは、これだけ求めているのにと、つい思ってしまいますが、これだけがどれだけかということです。阿弥陀様は五劫の間の思惟と、兆載永劫、私のために修行して頂いたのに、ほんのちょっと求めただけで「わからん、わからん、まだ聞けん」と駄々をこねています。聞かせていただければ、簡単なことですが、聞かせていただくまでは、あまりに結果ばかり焦っても仕方がありません。
私は、昨年、自宅兼事務所を建てました。建物の名称をサンガと名付けましたが、自分的には自坊と言っています。自坊になって通勤時間がなくなって時間ができましたので、毎朝1時間半、散歩しています。走っている人もいますが、ほぼ長続きしません。太っている人ほど、一生懸命走っている印象ですが、そんなに焦らなくていいのにと思ってしまいます。もちろん、いつ死ぬとも限りないので、悠長なことは言ってはおれませんが、あまりに焦って仏縁を切ってしまっては元も子もありません。焦って焦らずです。