ご讃題
「また、西の岸の上に、人ありて喚ばうていはく、〈「汝」一心正念にして直ちに来たれ、我能く護らん〉」というは、「西の岸の上に、人ありて喚ばうていはく」というは、阿弥陀如来の誓願なり。「汝」の言は行者なり、これすなわち必定の菩薩と名づく。龍樹大士『十住毘婆沙論』にいはく、「即時入必定」となり。曇鸞菩薩の『論』には、「入正定聚之数」といへり。善導和尚は、「希有人なり、最勝人なり、妙好人なり、好人なり、上上人なり、真仏弟子なり」といへり。
お取次をさせていただきます。今挙げさせて頂いたご讃題は、親鸞聖人の『二巻鈔』のなかで、善導大師の二河白道の譬を詳しく解釈しておられるところです。その「下巻」で西の岸の上で人があって、「『人ありて喚ばうていはく』というは、阿弥陀如来の誓願なり」と喚んでいるのは、阿弥陀如来の誓願、阿弥陀仏の本願とされます。
阿弥陀如来は迷いの生死、生き死にを繰り返している私のために本願を建てて下さいました。諸の行ができずに、諸仏方のお救いからもれた私に、一度、法蔵菩薩に成り下がって、五劫の思惟と兆載永劫のご修行により、阿弥陀仏となられ、南無阿弥陀仏と六字の名号に成られました。「劫」という単位は、永遠と言ってよい程であり、私たちの日ごろの経験的な時間では到底、言い表わすことはできません。
「磐石劫」という譬え説かれます。四十里四方の大石があり、1里は4㎞ですから160㎞四方の大石です。京都からでしたら、今年の壮年の集いが開催されたたつの市くらいまでです。新幹線で姫路駅の一つ先の駅です。とんでもなく大きな石です。その石が天人の羽衣で百年に一度払い、その大きな石が摩滅して無くなってもなお「一劫」の時間は終わらないと譬えられます。私の迷いが深いため、罪業が重いため、それだけ莫大な時間がかかっています。そして十劫の昔に、本願が成就し、ずっと阿弥陀様は私たちに呼び続け、叫び続けておられます。
「汝一心の正念にして直ちに来たれ、我能く護らん」の「汝」に対しては、行者であるとされています、これはすなわち必定の菩薩と名づけると仰っています。行者というのは生死の解決を求めている人です。そして必定の菩薩と名づけるとされています。必定の菩薩というのは、親鸞聖人のご解釈では念仏行者のことになります。浄土真宗では他力の行者のことです。
それを龍樹菩薩は『十住毘婆沙論』に即時入必定と即の時に必定に入ると説かれました。信心を獲得すると同時に、必ず仏になることに定まった位に入るということです。曇鸞大師は『往生論註』に入正定聚之数ともいわれ「正定聚の数に入る」と仰っています。「正定聚」というのも必ず仏に成ることに定まった人ということです。
それを善導大師は「希有人なり、最勝人なり、妙好人なり、好人なり、上上人なり、真仏弟子なり」と仰っています。ここは、9月の信先生の聖典講座で「妙好人について」教えて頂きました。希有人とはまれな人です。妙好人の「妙好」はもともとインドの言葉で「分陀利華」といい「白蓮華」を意味します。『観無量寿経』に「もし念仏するものは、まさに知るべし、この人はこれ人中の分陀利華なり」と説かれています。分陀利華とは白蓮華のことですので、妙好人とは、白い蓮華のような信心をいただいた人を呼ぶ言葉です。
つづく (2025年11月7日 華光大会での法話)

