伊藤康善先生の『仏敵』では、伊藤先生と同部屋の北村という友人が寮の先生に「本願成就文にある聞其名号の聞の一字が解りません。・・・あの聞の一字が解らないために・・・」と号泣されます。妙好人の三河の七三郎は若い時にお喚び声が聞こえなくて、ああでもない、こうでもないと思い悩んでいました。あるとき、美濃に行く途中に、同行宅に泊まります。そこに一人の老婆がいて、非常にお助けを喜んでいます。七三郎は「私はどうも如来の喚び声が聞こえません。どうしたならば、それが聞こえましょう」と尋ねます。老婆は「お前は何を言うてござる。お前の口から出るご称名それが、如来様の喚び声じゃ」と応えます。これを聞いて七三郎、躍り上がるほどに喜んだそうです。私は悟朗先生からの「君の口から出ているのが阿弥陀様の御呼び声」やないかの一声で聞かせて頂きました。
お軽さんは、「まこときくのがおまえはいやか、なにがのぞみであるぞいな。自力はげんでまことはきかで、現世いのりに身をやつす」と続けています。真実の教えを聞くのがイヤで、なにが望みであるか? と尋ねています。私たちの本心はお金が欲しい、今の時代は、お金さえあれば何でもかなうと思ってしまいがちです。
そうはいっても、うちは会計事務所ですので、キャッチフレーズは「現金を、キャッシュを残す」です。たくさん儲かり次から次へと投資をする会社もあれば、破産寸前の会社もあります。それを見ていれば、最低限のお金は必要ですが、かといって必要以上にあれば、それはそれで身を持ち崩します。今、経済は全世界的につながっていますので、金融破綻となれば、タイミングの遅い、早いはあっても、全世界的に崩壊します。
先ほどの藤原直哉さんは、中国の不動産のバブルは既にはじけており、世界の金融市場は崩壊の途中にあると言っていますので、今は史上最高値の株価をつけていますが、数年内に崩壊します。不動産投資をしている会社は金利が1%でも上がれば倒産する会社がたくさんあります。 私は平成のバブル崩壊を目の当たりに見てきましたので、将来の姿が、ある程度、予測できますが、それを経験していない若い経営者などは、いまだに投資をしています。いつバブル崩壊に気がつくかで将来、生き残れるかそのまま消えてしますかの別れ道です。
しかし、仏様が用意されているお救いは、凡夫の煩悩の延長線のようなものではありません。後生の問題を解決してもらうことですから、凡夫の思いを超えたものです。とはいっても、凡夫にはお金が大事で、そのために必死になっています。
「自力はげんでまことはきかで現世いのりに身をやつす」で、救われるために自力一杯に求め、他力は聞かずに、今だけ、金だけ、自分だけに身をついやしています。
「思案めされやいのちのうちに、いのちおわればあと思案」。命のある間に、思案しなさい。命がなくなれば、後の思案となって後悔を残すことになる。『大無量寿経』には「大命まさに終らんとするに、悔懼こもごも至る」と説かれています。命がまさに終わらんとするときに、今生の後悔と来世への恐怖が入り混じって起こってくるというのです。
最近は、死は怖くないと発言している人が多くなってきました。田坂広志さんが書いた『死は存在しない』という本では、最先端の量子科学からの仮説ということで死後どうなるのかを論じていますが、結論は死は怖くないとしています。経済アナリストの森永卓郎さんの『ザイム真理教』は、経済本でいいこと書いているなと思って読んでいたら、いきなり浄土真宗の教えを、あまりに稚拙な知識で書かれています。森永さんは、ステージ4の末期ガンとなっていますが、死を目の前にしても吞気なものかなと思います。
映画「おくりびと」の基となった青木新門さんの『納棺夫日記』に近代の作家や知識人に自殺が多いのも、死の実相を知ることもなく、頭で死を考えているのではないかと疑問を呈しています。西洋の思想では、生か死であって生死というとらえ方はありません。仏教では生死を一体として捉えています。親鸞聖人は生死いずべき道、生死の迷いからでることのできる道を求められました。