第1回 生死出づべき道 妙好人お軽同行 その1

『仏敵』の中で、で伊藤康善先生は、「同行学をしなさい」と堀尾ヨシさんから言われ、華光会では同行学を重んじられてきました。昔の妙好人は、言行録や伝承されたものしかありませんが、今、現在に生きている妙好人からは、直接、求道の課程、現在のお味わいなども聞くことができます。

学問の世界では、学術論文に自分のお味わいを載せると厳しく指摘されます。親鸞聖人の『教行信証』などは、お味わいがたくさん書かれていると読めますが、それは宗祖ということで問題にはなりません。それでも庄松さん、お園さん、浅原才市さんなどの文章は、真宗学の論文でも取り上げられ、重んじられています。鈴木大拙師が『妙好人』の中で才市同行を紹介されたのが大きかったようです。

さて、昨年の永代経法要の後、家族で山口県の湯野温泉に行き、妙好人のお軽同行の六連島に寄りました。今日は、お軽さんの体験発表のつもりで、ご法話いたします。

六連島は、関門海峡の下関から六連丸という、漁船のような船に乗り、20分ほどです。六連島に降りても、自販機が一台と小さなトイレがあるだけで、何もありません。六連島は周囲およそ5キロメートル、一番高い所でも130メートルほどの台状の島で、山の中を登って降りる道を歩いて、50分程度で1周できるぐらるほどの小島です。段々坂を何百段も登りつめた台地に、皆さん暮らしています。当時は、麦、いも、ごぼう、らっきょうなどを作り、その野菜を大きな船に積み込み、下関や北九州などに、10日も20日もかけて売り歩いて、生活の糧とされていたそうです。

船着き場から登って15分くらいほどで、浄土真宗西教寺があります。そこに「於軽同行之碑」が建っています。昭和12年7月、西教寺住職の泉道雄師が建立されました。碑の下には略歴が彫ってあり、「お軽同行は長州六連島の人 父は大島岩吉 母オカル」となっています。お軽さんのお母さんもオカルさんだったのです。

お軽さんは、今から220年前の1801年、大森岩吉の次女として生まれ、少女時代は島一番のお転婆娘で、お姉さんが小さい時に亡くなり、養子を迎えなければなりませんでしたが、元来勝ち気であったので、島の若い衆は誰一人、婿になる者がなかったそうです。そして(当時からすれば)やっと19歳の時、向井家から次男の幸七さんを婿養子に迎えます。碑には「十九歳、幸七を迎えて夫とす」とあります。

お軽さん夫婦は、最初とても仲睦まじかったのですが、出張の時、幸七さんが北九州市で浮気をするようになり、島に帰る日が遅くなっていきます。周りのものは。うすうす気づいていても、お軽さんに知れたらエライことになると隠していました。でもついに、バレてしまいます。お軽さんの動揺は激しく、昼も夜も煩悶して、夫を恨み、仲間のお友だちを呪い続けたということです。

この悩みを機縁に、檀那寺の西教寺さんに参られるようになります。さすがに夫の浮気のことは書かれていませんが、「素行が悪くお軽苦慮すること多年」と、長い年月を苦労し、「寺門を叩き浄土真宗の法義を聞く」とあります。「求道心の激烈なること、あたかも頭燃をはらうが如く」と、頭についた炎を払うがごとく激烈に法を求めたと。

『教行信証』には、「急作急修して頭燃を灸ふがごとくすれども、すべて雑毒雑修の善と名づく。また虚仮諂偽の行と名づく」とありますが、頭について火をはらうように求めても、すべて雑毒の善であり、嘘、偽りの行であったと仰っています。でも、お軽さんは、それだけ熱心に求めたということです。何度となく信仰は崩れてしまいます。いっその事、海に入って死んでしまおうとさえします。

(華光誌 2024年7月号掲載分)

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