第2回 生死出ずべき道 妙好人お軽同行 その2

『教行信証』には、「急作急修して頭燃を灸ふがごとくすれども、すべて雑毒雑修の善と名づく。また虚仮諂偽の行と名づく」とありますが、頭について火をはらうように求めても、すべて雑毒の善であり、嘘、偽りの行であったと仰っています。でも、お軽さんは、それだけ熱心に求めたということです。何度となく信仰は崩れてしまいます。いっその事、海に入って死んでしまおうとさえします。

「三十五歳、信心開発す」とあります。35歳の時に信心獲得され、その後は、「一変または別人の感あり」となっています。華光会ではなかなかお目にかかれませんが、それだけ教化力が強かったのでしょう。そして、石碑には「爾来、法味を愛楽する事二十有余年」とあります。信心決定したのが35歳ですから、56歳で亡くなるまで21年間。「法味を愛楽す」―法の味を愛し楽しまれたということです。愛楽とは、仏の教えを願い求めることですが、ご信心を得ていますので、法を楽しんだということだと思います。

「或いは歌に、或いは俳句に歓喜踊躍の心境を述べ、大悲伝普化の大行を励む」とあります。お軽さんは字も知らなかったそうですが、多くの詩が作られたのは、現道住職の弟の超道師が俳人であり、寺で度々句会を催し、また現道師の次男の大龍師も歌人であった影響を受けたようです。お軽さんが口述した歌を現道師が記録されました。

「安政三年、1856年正月16日、島の中で没す」と。当時流行のコレラで、56歳で亡くなります。夫の幸七さんは88才まで生きておられます。信心獲得後は、家庭円満で、三男三女のお子さんを育てています。

ご往生の前年、55歳の秋、お軽さんは、ご住職に「御院家さん。おかげさまで、下関や中津まで、聴聞に参りました。わしゃ、1日でも長く娑婆に生きのびさせてもらいたいと思っとりますが、枯れ草の先の露のような命、ひょっと、わしが、あんたよりお先にお詣りさせて頂いた時、島の人が『お軽さんは、よう時化の時でもお寺詣りをしちょったが、今頃は何処の世界に行っちょるだろうかのう』と言う人に会われたら、今からいう歌だけで結構です。読んであげて下さい」と言って、詠まれた歌が、

「亡きあとに かるを尋ぬる人あらば、 弥陀の浄土に行ったと答えよ 」

と。これはお寺の本堂の真ん中の柱に、貼り付けられていました。お軽さんは、この歌を伝えた3ヶ月後に、コレラで往生され、これが辞世の歌となってしまいました。

石碑には最後に、本願寺学匠のエライ方が、その信の徳を讃え、その妙好人伝に歌詞十余首を収めて巻末に「誠に近代の最勝人なり。ここにその史蹟を保存し記念碑を建立し以て後足に伝えんとす」と記されています。

檀家寺のご住職、坊守さんのお育ても大きかったと西教寺の「西教祇園精舎記録」に誌されています。住職の現道師は、「お軽よ、幸七のことを思えば、さぞ腹立つことじゃろうが、ええかな、腹立ちまぎれに婿の恥を、1軒1軒ふれて歩くのじゃないぞ。悔しくてどうにもならんようになったら、真っ直ぐにお寺においで。そして、わしと坊守とにあんたの胸の中のありったけを遠慮無く打ち明けておくれ、ええかな」と諭しています。

信前のお軽さんは、自分はいい女房であり、いい母親であり、いい女である、と思いこんでいました。しかし、段々と御法を聴くにつけ、「ありゃ、このお軽は何とまあ、鬼の角さえもぎとる恐ろしい女であった」と気づかせて頂いたのが35歳の獲信の時でした。

(華光誌 2024年7月号掲載分)

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