第3回 生死出ずべき道 妙好人お軽同行 その3

昭和30年のお軽同行の百回忌法要では、本願寺から大江淳誠和上、山本佛骨和上、桐渓順忍和上などが訪れ、お軽さんを偲んでそれぞれ歌を残されていました。

今回は、お軽さんの歌の中から、「六光」「ある年の御正忌報恩講」「こうも聞こえにゃ」を取り上げます。お寺で編纂された『妙好人おかるさん』(西教寺・・六光会刊)という小冊子から紹介いたします。

35歳の時に歌った歓びの歌が「聞いてみなんせ」から始まる「六光」という詩です。六光とは、浄土の蓮華には百千億の花びらがあり、その花びらに青・白・黒・黄・朱・紫の六光があって相互に照らし合う(華光出仏)と説かれています。

「六光」

聞いてみなんせまことの道を

無理なおしえじゃないわいな

まこときくのがおまえはいやか

なにがのぞみであるぞいな。

自力はげんでまことはきかで

現世いのりに身をやつす。

思案めされやいのちのうちに

いのちおわればあとじあん

領解すんだるその上からは

ほかの思案はないわいな。

ただでゆかるるみをもちながら

おのがふんべついろいろに

おのがふんべつさっぱりやめて

弥陀の思案にまかしゃんせ。

わしがこころは荒木の松よ

つやのないのをおめあてよ。

きのう聞くのも今日またきくも

ぜひにこいとのおよびごえ。

重荷せおうて山坂すれど

御恩おもえば苦にならず。

たかい山からお寺をみれば

御恩とうとやたからやま

たから山には足手をはこぶ

むなしかえりをせぬがよい。

まことしんじつ親さまなれば

なんのえんりょがあるかいな。

おもうてみなんせよろこぶまいか

まるのはだかをしたてどり

どんざきるともおいわれきけば

きぬやこそできたこころ。

きちがい婆々といわれしわれも

やがて浄土のはなよめに。

 

まず、「聞いてみなんせまことの道を、無理なおしえじゃないわいな」と始まります。聞かせていただくと簡単な教えです。逆に簡単すぎて、なかなか信じることができません。「無理な教え」にしているのは、自分自身であったと知らされます。「聞其名号 信心歓喜」で、名号を聞くひとつで救われる教えです。どこからか不思議な阿弥陀様の声が聞こえてくる訳ではありません。また仏様の姿を見る訳でもありません。そんな不思議なことがあれば信じられるのにと信心を頂くまでは思ってしまいますが、阿弥陀様が本願に誓われているものは、聞く者を救う、です。

また、教学に積み上げていった上で聞けるものでもありません。それなら、文字も知らないお軽さんは救われません。経済アナリストの藤原直哉さんの最近の動画を見ていましたら、「偶然と奇跡」ということを言われています。世界の情勢を分析し、Xで発信されていますが、21世紀はこころの時代、直感の時代だと言うのです。その中で偶然というのはない、偶然ということを言いだしたらそれは偶然教という一つの宗教になると言っていました。仏教では、因と縁とにより結果が生じると教えます。「偶然と奇跡」ということで、奇跡ということはある。しかし奇跡も後から逆算で理論的に積み上げていけると言われます。仏教でも言えるなと思いました。まずは体験があって、そこに後付けで理論、仏教でいえば経典などのお聖教により根拠づけしていきます。親鸞聖人は、ご自身の体験に基づいて、経典、論釈の文言を読まれ、お釈迦様の教えを分かりやすく教えて下さった方です。「親鸞めずらしき法をひろめず、如来の教法をわれも信じ、ひとにもおしえきかしむるばかりなり」と仰っていました。

なので、私も華光会で聞かせていただいてから、龍谷大学大学院や本願寺宗学院で真宗学を勉強させてもらいましたが、順番が逆だったら、とても聞かせていただくことはできませんでした。

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