第127回 生死出ずべき道7 妙好人お軽同行7

最後にお軽さんの「こうも聞こえにゃ」の歌です。

「こうにも聞こえにゃ」

こうも聞こえにゃ聞かぬがましよ 聞かにゃ苦労はすまいもの

聞かにゃ苦労はすまいといえど 聞かにゃおちるし聞きゃ苦労

今の苦労は先での楽と 気休めいえど気はすまぬ

すまぬ心をすましにかかりゃ 雑修自力とすてられる

すてて出かけりゃなお気がすまぬ 思えば有念 思わにゃ無念

どこに御慈悲があるのやら どうで他力になれぬ身は

自力さらばといとまをやり わたしが胸とは手たたきで

たった一声聞いて見りゃ この一声が千人力

四の五の云うたは昔のことよ じゃとて地獄は恐ろしや

なんにも云わぬがこっちのねうち そのまま来いよのお勅命

いかなおかるも頭がさがる 連れて行こうぞ連れられましょうぞと

往生は 投げた 投げた

「こうも聞こえにゃ聞かぬがましよ 聞かにゃ苦労はすまいもの 聞かにゃ苦労はすまいといえど 聞かにゃおちるし聞きゃ苦労」と、信前の、聞かせて頂く前の苦労を言っています。私も求道中はこの心境でした。わざわざゴールデンウイークに華光会に行かなくてもいいのに、聞かなければ後生は一大事です。この後生の一大事を知らせてもらった身は、それをほっておくわけにはいきません。

私も19歳で、後生の一大事を知らされて、それから24歳まで「後生に一大事があるぞー」と、ずっと勧誘をしていたら、身体に沁み込んでしまって、放っておく訳にはいきませんでした。その23年後に華光会に出偶いますが、なかなか聞かれずに、福岡に戻っては八つ当たりをしていました。

「今の苦労は先での楽と 気休めいえど気はすまぬ」で、今、苦労して京都まで聴聞しているからこそ、先では楽が待っていると気休めをいっても、苦しいばかりです。「すまぬ心をすましにかかりゃ 雑修自力とすてられる」。いろいろと思案して心をこねくりまわしても、全て自力とはねつけられます。「すてて出かけりゃなお気がすまぬ」。自力を捨てたと思っても、自力はすたりません。他力でとっていただかなければなりません。「思えば有念 思わにゃ無念、どこに御慈悲があるのやら」と、思ってもダメ、思わなくてもダメとはねつけられます。どうしたら救われるのだろうかと、阿弥陀様を恨みに思ったりするヤツです。

ここでお軽さんは、「どうで他力になれぬ身は 自力さらばとひまをやり」と、どうしても他力にはなれない身は、自力はさようならとヒマをやって、「わたしが胸とは手たたきで たった一声聞いて見りゃ この一声が千人力」。阿弥陀様の喚び声を一声聞いたのが千人力なのです。その身になってみれば、「四の五の云うたは昔のことよ」で、頭では理解できますなど、とんでもないことを言ってたり、理屈をこねていたことが吹っ飛んでしまいます。阿弥陀様の頭の上であぐらをかいている限りは聞けません。とんでもない自惚れ野郎です。私も求道中、華光会の虎の穴のような日高支部に行かせて頂いた時、一番印象的だったのは、「頭を下げなさい、頭を下げなさい」と強く言われたことです。聞けないのは阿弥陀様のせいではなく、自分の方に問題があります。聞けないと駄々こねているのは、阿弥陀様の修行が足りんと言っているようなものです。この法は頭が下がらないと聞くことができません。

「じゃとて地獄は恐ろしや なんにも云わぬがこっちのねうち」。こちらからは何も言うことはありません。ただ「そのまま来いよのお勅命 いかなおかるも頭がさがる」で、値打ちがない自分を知らされて、お軽さんも頭を下げ、弥陀の本願招喚の勅命を聞かせてもらわれました。「連れて行こうぞ 連れられましょぞと」、阿弥陀様は浄土に連れて行くと仰っているから、そのまま連れて行って頂きましょう。「往生は 投げた投げた」と、助けるのは阿弥陀様のお仕事です。阿弥陀様のお仕事を凡夫が取り上げてはいけません。ただ聞かせて頂くだけです。

最後に、加賀の小松の森はな同行のお言葉を紹介します。

「称える称名 われがとおもうた そうでなかった 弥陀の喚び声 ああ ありがたい 南無阿弥陀仏 地獄一定よと おもうてみれば 地獄 極楽 用事なし」。

(令和6年4月28日 華光会永代経法要法話より)

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