VOL.136 生死出ずべき道 第16回 庄松同行 その2

親鸞聖人は「正信偈」に「如来の弘誓願を聞信すれば、仏、広大勝解のひととのたまへり。この人を分陀利華と名づく」と仰っています。阿弥陀仏の本願を聞信すれば、仏さまは、広大勝解の人と褒められ、この人を分陀利華と名づけられます。『大無量寿経』では「我が善き親友なり」と説かれ、『如来会』では「広大勝解者」と説かれています。善導大師は真仏弟子と、まことの仏弟子であると仰っています。

浄土真宗では仏教の数ある宗派のなかでも妙好人をたくさん輩出しているのが一つの特徴となっています。親鸞聖人が浄土真宗を開かれて800年になります。その間、多くの妙好人が出ていますが、その中で最も有名なのは讃岐の庄松さんです。今日は庄松同行のお話をさせて頂きます。庄松さんは1799年生まれで1871年(明治4年)に73歳で往生されています。昨年、永代経でお軽さんのお話をさせて頂きましたが、お軽さんは1801年生まれですから、庄松さんの方が2歳年上です。庄松さんは讃岐、現在の香川県、お軽さんは下関の六連島ですから、同じ時代でしたが、会うことはなかったと思います。

同じ四国の愛媛県松前(まさき)町の徳太郎という同行が庄松を慕って会いに来ますが、お亡くなりになった後でした。庄松の話を聞書しありのままをありのままに書き流したものが『庄松ありのままの記』という本です。活字本で250冊つくり、30年後に絶版となり、続編を加えたものが大正12年に出版され、令和元年に重版されています。

正編、続編のなかから、続編の1番目に出ているのが御法主に「後生の覚悟はよいか」と尋ねた逸話です。庄松さんは浄土真宗の興正寺派のお寺の門徒でした。華光会の創始者の伊藤康善先生も興正寺派です。御法主、本願寺派でいえばご門主です。ご門主の方が馴染んでますので、ご門主とします。

庄松さんが京都の西本願の隣りにある興正寺派の御本山へ5,6人の同行と初参りしました。御剃髪(おかみそり)を受けます。私も得度のときに、ご門主から御剃髪を受けました。頭にチョンとカミソリを当ててていかれます。次から次へ移って、庄松さんにカミソリを当てて次に移ろうとした時に、ご門主の法衣(ころも)の袖をひきとめて「アニキ覚悟はよいか」と申しました。

いよいよ御剃髪が終わって、ご門主から「今、我が法衣(ころも)をひっぱった同行を此所へ呼べ」と、取次役に命ぜられます。その役人が多くの同行の中に出て「今、ご門主の法衣を引っ張った同行は何所にいるか、御前へ出られよ」との仰せであるぞと呼びかけます。それを聞いても庄松さんは平気な顔をしていましたが、連れて行った同行たちは、びっくり仰天します。ご無礼千万、こんなことなら連れて来なければよかった、こんな人を残して帰ることもままならず、私たちよりお許しを願うより道はないと、取次役に申し上げます。「誠に恐れ入りますが、この者はバカであります。一文二文の銭さえ数も知らない者ですのでご無礼の段、どうぞ御慈悲でお許し下さい」と願います。言われたままご門主に伝えれば

「いやどうでもよい。一度此へつれて参れ」と命ぜられます。致し方なく、庄松さんをご門主の前につれてきました。礼儀作法もしらずに、ぺったり、あぐらかいて座り込みます。その時、ご門主は「今我が法衣の袖を引っ張のは汝であったか」

庄松さん「へぇおれであった」

ご門主「何と思う心から引っ張た」

庄松さん「赤い衣を着ていても、赤い衣で地獄をのがれることはできんで、後生の覚悟はよいか思うて云うた」

ご門主「さぁその心根(こころね)が聞きたいため汝を呼んだのだ、敬うてくれる人は沢山あれど、後生の意見をしてくれる者は汝一人じゃ、よく意見をしてくれた、しかし汝は信を、信心を頂いたか」

庄松さん「へぇ頂きました」

ご門主「その得られた相(すがた)を一言申せ」

庄松さん「なんともない」

ここまでをニュースレターの今月の一言に載せたら、早速、富山県の森さんから「なんて分かり易い、有り難い、これで満足充分です」というメールを頂きました。ご門主とのやりとりは、さらに後半部分があります。

(つづく)

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