VOL.137 生死出づべき道 第17回 庄松同行 その3

実は、この一言を載せたときに、後半部分を入れ忘れていまして、訂正を出さなければいけないかなと思ってましたら、素晴らしいお味わいを頂いたので、これはこれで充分かと思いました。ご門主と庄松さんとの後半の問答です。

ご門主「それで後生の覚悟はよいか」

庄松さん「それは阿弥陀さまに聞いたら早う分かる。我の仕事じゃなし、我に聞いたとて分かるものか」

後生の解決は、煩悩にまみれた私には無理です。阿弥陀様におまかせするしかありません。たとえは弱いかもしれませんが、病院に入院したら、医者まかせです。一旦、入院してしまったら、医者の引いたレールの上を走らなければなりません。自力を捨てて他力によらなければなりません。自力・他力は元々は仏教用語ですが、世間的にはよく「他力」は単に自分の力ではなくて、他人の力をあてにする意味合いで使われますが、親鸞聖人は「他力といふは如来の本願力なり」と『教行信証』「行巻」で仰っています。如来とは阿弥陀如来の本願力のことです。阿弥陀如来が、我々衆生に往生のための因と果、原因と結果をお与えになって、救済する働きです。

原因とは先ほど、お話しました法蔵菩薩の五劫の思惟と、兆載永劫のご修行です。結果とは南無阿弥陀仏の御名号です。ご名号一つで浄土往生させようというのが阿弥陀仏の本願です。因と果をお与えになるのを本願力回向といいます。阿弥陀様の本願の力の働きによって救ってくださいます。親鸞聖人は「回向は、本願の名号をもって十方の衆生にあたえたまう御のりなり」と仰って、仏さまの方から回向して下さいます。本来、回向という用語は自分の善をさしむけるという意味ですが、浄土真宗では逆です。私たちの方からは、一切のはからい、疑いがなく、私に南無阿弥陀仏を与えて救おうという本願力におまかせすること、他力といいます。私の善はふり向けません。

ご門主が後生の覚悟を聞いたときに、庄松さんは「それは阿弥陀さまに聞いたら早う分かる。ワシの仕事じゃなし、ワシに聞いたとて分かるものか」と答えます。自力がすっかり廃っています。

ご門主は庄松さんの答えを聞いて非常に満足され「弥陀をたのむと云うもそれより外はない。多くは我機をたのみてならぬ、お前は正直な男じゃ、今日は兄弟の杯をするぞよ」と召使いのものを呼び、お酒をとりよせご門主のお酌でご馳走になりました」。「我が機をたのんではならぬ」というのは、私が信じることはいりません。こう聞いたら、ああ聞いたらと機で計らいますが、全て無駄事です。機とは人のことで、例えば真宗では悪人正機といいます。悪人こそ阿弥陀様のお救いのお目当てです。ここで「悪人」とは、法律や道徳に背く人ではなく、自身の心に潜む三毒の煩悩に気づき、自らの力では救いを得られないと自覚した人のことをいいます。

三毒の煩悩とは、貪欲、瞋恚、愚痴です。貪欲とは欲の心、『大無量寿経』には「田なければ、また憂へて田あらんことを欲ふ。宅なければまた憂へて宅あらんことを欲ふ」て、有無同然、あってもなくても同じことだと説かれています。今の日本に生きている人は、自分は無宗教で何も信じていないという人が多くなっています。何も信じなくて生きている訳ではありません。今の人は「お金」を信じているとも言えます。「今だけ、金だけ、自分だけ」です。

会計事務所でお金をたくさんもっている人、会社がある一方、赤字続きでお金が無い人、会社もあります。幸福度という面においてはそれほど変わりません。お金は無いと困りますが、あったからといって必ずしも幸せとはならないことは実感として感じます。お金がある人にはある人の苦労が、お金が無いひとには無い人の苦労があります。正しく有無同然です。

瞋恚(しんに)は怒りで、にくしみ、いかり、嫌うことを指します。欲が邪魔をされると怒りの炎が燃えあがります。怒りで焼き尽くしてしまいます。その人を破滅させるには、怒らせばいいともいいます。そうすると勝手に沈んでいきます。

仏法を聞かせて頂くと、自分ほど悪い者はおらんと仏さまから指をさされます。逆に、仏法を聞かないと自分ほどいい人間はいない、自分ほど正しい人間はいないと疑う心も無く信じ切ってしまいます。自分の智慧の範囲で考えてますので、どうしても自分が一番になってしまいます。頭を下げて仏法を聞かせて頂かなければなりません。自分が正しいと思えば思うほど、この世ではうまくいかないようです。お互い地獄行きの身ですから、お互い様と思いたいところです。

つづく

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