
お釈迦様のお弟子方は、善行ができて無爲泥洹道を得ることができるかもしれませんが、お釈迦様がお隠れになって2,600年経った末法の私たちは欲と怒りと愚痴にまみれていますので、とても善行ができる器ではありません。私たちというより私にはとてもではないできません。阿弥陀仏の本願力によらなければなりません。阿弥陀様はこんな私を哀れんで、必ず救うという誓い、本願を建ててくださいました。
「人身受け難し、今已に受く。 仏法聞き難し、今已に聞く。 この身今生に向って度せずんば、 さらにいずれの生に向ってか、この身を度せん」です。受けがたい人間界の生をうけて、今、聞き難い、遇いがたい仏法を聞いている。今生においてこそ、聞き抜かなければ、いつこの生死の繰り返しの打ち止めをすることができようかということです。
そこでご讃題に戻りますと、親鸞聖人は『教行信証』に「おほよそ大信海を案ずれば、貴賤(きせん)緇素(しそ)を簡ばず、男女老少をいはず、造罪の多少を問はず、修行の久近を論ぜず」と仰っています。
総じて、他力の信心をうかがうと、貴賤、貴い階級、賤しい階級をえらばない。いまは一応、身分制度、階級はありませんので、現代でしたら、金持ち、そうでない人になるかと思います。現代人はほぼお金を信仰していますので、お金を持っているというだけで一目をおいてしまいます。しかし、阿弥陀様の救いには、身分、お金のあるなしは全く関係がない。えらびません。また、緇素(しそ)をえらばす。「緇」は黒、「素」は白の意で、僧侶と俗人ということです。親鸞聖人は非僧非俗とおしゃって、僧に非ず、俗に非ずとされています。阿弥陀様の救いには、僧侶も俗人も関係がないということです。ここが真宗の厳しいところです。僧侶だからといって先生面もできませんし、門徒だからといって卑屈になることもありません。信心をえているか否かです。信心には僧侶も俗人も関係ありません。
また、男も女もえらびません。比叡山は平安時代に最澄により女人禁制となり、明治時代になり解除になりました。しかし、阿弥陀様の救いは男性も女性も関係ありません。男の方の理屈が強過ぎて逆に、難しいのではないかと思うくらいです。
「造罪の多少を問はず」とも仰っています。阿弥陀様の救いは、罪の多い少ないは関係がありません。同じく蓮如上人は「万事信なきによりてわろきなり。善知識のわろきと仰せらるるは、信のなきことをくせごとと仰せられ候ふことに候ふ」と仰って、善知識とは仏教の善い先生、信心を勧めてくださる先生です。善知識である蓮如上人は、信心のないことが悪いことだとされています。阿弥陀様の声を聞かないことが悪いとされます。
親鸞聖人は、「修行の久近を論ぜず」とも言われます。修行の久しいということは長い、近いということは短いということで、修行の時間の長さは関係ないとされます。真宗で言えば、聴聞歴が長い、短いということです。
聴聞の長さは関係なく、仏教の知識があるないも関係ありません。聞くことは頭で理解してわかることではありません。仏様の呼び声が聞き届けられることです。理解を積み上げていって、その延長線上に阿弥陀様の救いはありません。阿弥陀様の救いは、凡夫の理解を超えた、不可称不可説不可思議の世界です。
聞けない私であった、信じれない私であったとしらせて頂くだけです。救いは阿弥陀様の仕事で、私の仕事ではありません。阿弥陀様の仕事を取り上げてはいけません。
如来の誓願、阿弥陀仏の本願の薬は南無阿弥陀仏です。南無阿弥陀仏の名号の中に、信じる心を封じ込めて私たちに南無阿弥陀仏として与えてくださいます。回向してくださいます。南無阿弥陀仏が私の上に音声回向され、届いたときが信心となり、法を喜ぶ姿が口に現れて念仏となって、一声、一声、浄土に往生させていただきます。そこまで聞き抜かせて頂きましょう。
(令和7年5月5日華光会永代経法要法話より)