VOL.133 生死出ずべき道 第13回 一人四婦 その6

第三婦人は「謂ゆる父母・妻子・兄弟・五親・知識・奴婢」とされます。近しい人も置いていかなければなりません。父親、母親、妻、子ども、兄弟、親戚、先生、今はいませんが召使いなどです。「生まれる時より、恩愛、轉相し思慕す」生まれたときから恩愛にからんでお互いに思慕、思い思われていますが、「命が盡きるに至って、啼哭(ていきゅう)して之送るに、城外、塚間に到る」で、命がつきる時に至って、声をあげて泣いて、嘆き悲しんで送ります、城の外、墓場までは行きます。「便ち死人を棄て各おの自ら還歸る」で、死人を墓場に棄てて家に帰ります。「憂いの思い十日を過ぎず」、憂いの思いは10日も持ちません。「便ち共に飮食し、死人を捐(す)て忘る」すなわち共に飲食をして死人を棄てて忘れてしまいます。

最後に第四婦人です。「第四婦者是人の意(こころ)」と説かれます。第四婦人はひとの心、業魂です。火の車、作る大工はなけれどもおのが作りておのが乗りゆく。火の車は自分で作って自分で乗っていきます。「天下に自愛有ること無し」で、この世で自分を大切にすることは有ること無しとされます。「意を守護する者。皆、放心、意を恣いままにし、貪欲・瞋恚・正道を信ぜず」と説かれ、心、業魂を守護する守るものは、皆、心のほしいままに、欲と怒りにまみれ、正しい道を信じないと、お釈迦様は仰います。

さて、皆さんはどうでしょうか。日々の有様はどうでしょうか。貪欲、お金が欲しい、財産が欲しいと第二婦人を求める心が一杯なんではないでしょうか。会計事務所をしていますので、日常から特に感じさせてもらっています。充分にお金を稼いでいるのに、どうしてそれ以上更に欲しがるのだろうと思ってしまいます。

しかし、いくら稼いで欲を満たしていても、そんなものはこの世限りのものです。死んでいくときには付いてきてくれません。貪欲は瞋恚と並べて説かれます。瞋恚は欲が邪魔されると出てくる心です。欲が邪魔されると怒りの心がでてきます。欲、愚痴の心で、何をしでかすのか判らないのが私です。

お釈迦様は更に「身死して、當に惡道に墮す。或は地獄に入り、或は畜生と爲す、或は餓鬼と爲す。皆、快く意の致す所也」と説かれます。身体が死んで、まさに悪道、悪い世界に堕ちていきます。あるいは地獄に入り、或いは畜生となり、あるいは餓鬼となる。皆、快く心がなしたところであると、自分の悪い行いの結果であるとされています。

「比丘、道を爲し當に自ら心に正意を端し、當に愚癡之心を去るべし、無愚癡之行、息づき惡を行ぜず」と説かれます。仏弟子たちよ、道をなして自らのこころを正しく持ち、愚痴の心を去りなさいと。愚痴がない行為を心掛け、悪を行じてなりませんと。

欲と怒りの根本は愚痴の心です。自分の結果は全て自分が行った結果であるにもかかわらず、受け入れられない心です。愚痴のない心で善行をすることはなかなか難しいことです。

最後に、お釈迦様は「惡を行ぜざれば殃(わざわい)を受けず」と、悪を行わなければわざわいを受けないと説かれます。「其の殃を受けずば生まれず。生まれずば亦老いず。老わずば亦病にならず。病にならずは亦死なず」と、災いをうけずに生まれない、生まれることがなければ老いることもない、老いなければ病になることもない。病になることがなければ死ぬことはないと仰います。「便ち無爲泥洹(ないおん)道を得る」と、悪を行じなければ涅槃道を得るとされます。最後に「佛かくの如く、是を説く。比丘、歡喜を受く」と、お釈迦様はこう説かれた、仏弟子方は歓喜を受けたとあります。

(つづく)

 

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