VOL.129 生死出づべき道 第9回 一人四婦 その2

更に「所以は如何」、どうしてそうなるのかと仰り、「彼の諸の衆生は、其の義を行ぜず、法を行ぜず、善を行ぜず、真実を行ぜず、展転して殺害し、強きは弱きを綾(あや)ぎて、無量の悪を造るが故なり」と、諸の衆生、私たちは、「義」とは道理にかなったことですので道理に外れたことを行い、「法」は仏法と思いますので、仏法を信じない。「善を行ぜず」善いことをしない、「真実を行ぜず」とは、真実とはここでもお釈迦様の説かれた仏法ですので、仏法から外れた行いをする。

「展転して殺害し」とは、生死を流転して殺生をする。毎日、毎日、肉・魚を食べていますので日々殺生をしています。いつも言われるように動物や魚は自分のことを人間のエサとは思っていません。人を殺すこともあります。実際に殺さなくても、仏様の目からは、あの人、憎いと思えば心の中でその人を殺しているのと同じです。

「強きは弱きを綾(あや)ぎて」とありますが、綾ぎての意味があまりわかりませんが、文面からは強きは弱きを挫いてとなると思います。本来は「弱きを助け強きを挫く」とならなければならないでしょうが、強い者、今ではお金を持っている人が大きな顔をして、弱い者、お金を持っていない人を挫いて、いじめているのが現実です。山崎豊子の『白い巨塔』では、まさに「強きは弱きを挫いて」の世界です。教授選では助教授は教授におべっかをつかい、教授は教授で助教授が気に食わなく、出身大学から横やりの教授候補をもってきます。助教授は下の医局の医者には横暴に振る舞い、患者にも横暴に振る舞って訴えられてしまいます。教授選に勝って教授になって、ますます周りに対し横暴になっていきます。後半の医療裁判の第二審ではなかなか厳しい結果となりそうです。

そして「無量の悪を造るが故なり」と説かれます。数限りない悪を造るがために六道を輪廻して、人間界に生まれることは盲亀浮木よりも可能性がないと仰います。「この故に比丘、四聖諦に於いて、未だ無間等ならずんば、当に勤めて方便して増上欲を起こして無間等を学すべし」と説かれます。このために修行僧たちよ、四聖諦を勧められます。四聖諦とは長阿含経に「いわゆる四聖諦あり。苦諦、集諦、滅諦、道諦」と説かれています。苦諦・集諦・滅諦・道諦で、苦諦は、人生は苦なり、苦しみである真理です。お釈迦様は「人生は苦なり」、人生は苦しみの連続であると説かれています。傍からみれば人生楽勝と見えている人でも、内実は、内情は苦しみの連続です。

四諦のうちの集諦は苦しみの原因の真理です。欲と怒りと愚痴にまみれた生活をしていますので、次から次へと苦しみがやってきます。欲が満たされなければ怒りとなります。年寄りは、愚痴になります。今さら言っても仕方のないことを後悔し、羨ましがります。

四諦のうちの滅諦は苦しみの滅という真理で、煩悩が滅した涅槃寂静の世界です。浄土真宗では、私たち凡夫は、今生では煩悩が滅することはありませんが、正定聚不退の、もう退転しない位に阿弥陀様のお力によりならせていただきます。

道諦は苦の滅を実現する真理です。親鸞聖人の教えでは、他力により苦しみを滅して頂きます。他力とは、世間的な用語では他力まかせではいけない、自力でやらなければと言ったりしますが、元々は仏教用語です。親鸞聖人は「他力といふは如来の本願力なり」と仰っています。如来というのは阿弥陀如来のことですので、他力とは阿弥陀仏の本願力です。

四聖諦を無間に学びなさいと説かれています。ここでの無間は無間地獄とは違い、絶え間なくということです。「仏この経を説きおわりたまいしに、諸の比丘、仏の説かせたもう所を聞きて、歓喜し奉行しき」と、お釈迦様はこの経を説き終わって、諸の仏弟子たちは、説かれたところを聞いて、歓喜して教えを実行したとあります。

これだけ生まれがたい、生まれ難い(にくい)人間界に生を受けたのは、生死の繰り返し、苦しみの繰り返しに打ち止めをするためであるとお釈迦様は説かれます。しかし、私たちの生活、人生はどうでしょうか。(つづく)

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