VOL.128 生死 第8回 一人四婦 その1

御讃題

おほよそ大信海を案ずれば、貴賤緇素を簡ばず、男女老少をいはず、造罪の多少を問はず、修行の久近を論ぜず、行にあらず善にあらず、頓にあらず漸にあらず、定にあらず散にあらず、正観にあらず邪観にあらず、有念にあらず無念にあらず、尋常にあらず臨終にあらず、多念にあらず一念にあらず、ただこれ不可思議不可称不可説の信楽なり。たとへば阿伽陀薬のよく一切の毒を滅するがごとし。如来誓願の薬はよく智愚の毒を滅するなり。『註釈版』245頁

今挙げさせて頂いたご讃題は、他力の信心は、どのような人が頂けるのかをお示しになったご文です。今回は、まずは盲亀浮木(もうきふぼく)の譬えを、初期の経典の『雑阿含経』(ぞうあごんきょう)で味わってみたいと思います。盲亀浮木の譬えは、人間界に生まれることがいかに難しいかを説かれた譬えです。

「是の如く我れ聞きぬ」から始まります。先月の九州法座で、大迦葉(マハーカッサパ)のビデオを見させて頂きました。そのビデオで大迦葉がお釈迦様の教えをまとめ、確かめる結集という会議を設けます。その仏典結集で多聞第一の阿難さんが、私はお釈迦様の説法をこう聞いたと、披露します。それをお弟子方が満場一致で間違いないと承認したものだけがお経として残されました。

あるとき、お釈迦様は、獼猴池(びこういけ)におられました。インドのヴァイシャーリー国にあるそうです。奈良公園にある猿沢池(さるさわのいけ)の名前の由来になっています。その獼猴池(びこういけ)のそばにある重閣講堂に住んでおられました。その時世尊、諸の比丘に告げられます。

「譬えば大地ことごとく大海となるに、一盲亀あり、命無量劫にして、百年に一度その顔をだすが如し」と説かれます。大地が全て海となって、そこに一匹の盲のカメがいた。そのカメは命無量劫で命は無限にあって、百年に一度だけ、水面に顔を出すようなものだと。

「海中に浮木の止まれる有りて一孔(いっこう)有り」と、海のなかに浮いた木が止まっており、その木に一つの孔(あな)がある。「海浪に漂流して風に随って東西す」と、海の浪に流され漂流して、また風に流され東へ西への漂っている。「盲亀百年に1たび、その頭を出すに、まさに此の孔に遇うことを得べきや否や」と、阿難に問います。盲のカメが百年に一回だけ、水面に頭をだすときにこの孔を通ることがあるだろうか、ないだろうかと。

「阿難、仏に白さく、能わざるなり」。阿難はお釈迦様に、それは不可能ですと、答えます。「所以は如何」どうしてかというと「此の盲亀、若し海の東に至れば、浮木は風に随ひて或いは西に至らん」この盲のカメは、もし海の東に行けば浮木は風にふかれて逆の西に行くかもしれません。「南北四維」南と北と、四維とは、天地の四つの隅で北西、南西、南東、北東の四つの方角ですので、四方八方に「圍遶(いにょう)するも亦たしかなればなり。」で、四方八方に巡り巡っているので、「必ず相得ざらん」かならず相遇うことはないでしょうと、阿難は答えます。

「仏、阿難に告げたまわく」お釈迦様は阿難に告げられます。「盲亀浮木は、復た差し違いすと雖も(いえども)、或いは復た相得ざらん」盲のカメが浮いたきは、また差し違ってすれ違うことはあっても、またその孔にカメの首が入ることはほぼないことであろう。

「愚痴無聞の凡夫、五趣に漂流せば、暫く人身に復すること、甚だ彼よりも難し」五趣というのは、地獄、餓鬼、畜生、人間、天上の5つの世界です。この5つに修羅界を足すと六道になります。迷いの世界です。愚痴で聞くことができない凡夫は、迷いの世界に生まれかわれ死に替わり、生まれかわれ、死にかわりと生死を繰り返しています。この六道を漂流しているため、経巡っているため、人間界に生まれることは、盲の亀が浮木に首を出すよりも難しいと説かれます。(つづく)

 

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