
次に第三夫人です。「復た第三婦を呼ぶ」また、次に第三夫人をよびます。「汝、当に我が去る隨うべし」。第一、第二夫人と同じように第三婦人に、お前は私が去るのと一緒に従ってくれと頼みます。それに対して「報えて言く」「我、卿の恩施を受く」、私はあなたの恩徳を受けてきました。「卿を送って城外に至る」あなたを送って、城外、城の外まではご一緒しましょう。しかし「終に卿が至る所に遠行すること能ず」と、あなたが往くところに一緒に同行して遠くにいくことはできません」。「夫、自ら恨で去る、夫は、更にガッカリして第三夫人を恨んで去ります。
最後に第四婦人です。「還りて第四婦共に議りて言う」、戻ってきて第四婦人と共に計って言います。「我れ当に是の国界を離るべし。汝、我が去(さ)るに隨え」。私はまさにこれからこの国を離れなければならない。お前は、私が去るところに一緒に従ってついてこいと言います。「第四婦、報て言く」。第四婦人は応えて言います。「我れ本、父母を去て離れて来るに給い、卿に使う」。私は元々、父母、親から離れてこちらに来ました。そしてあなたに使われています。「死生の苦楽、当に卿の到る所に隨う」。生死の苦しみ、楽しみ、まさにあなたの至るところに従いますと、応えてくれました。「此れ、夫、三婦の自らに隨う所重を意すべきこと能わず」。夫は第一、第二、第三の婦人が自らに従ってついてくれることを願っていましたが、それはできないことでした。「但、苦醜を得、意とすべからずは倶に去る耳」。ただ、第四婦人はこき使ってきたために顔は真っ黒でボロをまとって見られたものではありません。自分の意図すべきとろこではないが、第四婦人とと共にさるしかないと諦めます。
「仏言く、上頭の所は譬喩なり」として、これに対するお釈迦様の解説があります。「一人者、是れ人の意神を説く」、一人というのはこれ人の「意神」と仰っています。悟朗先生の「親指のふし」では業魂とされています。私の業魂のことを説かれた譬えです。
さて、このたとえは、死んで行くときにこの世に置いていかなくてはならないものを、持って行くものをたとえています。そこで第一婦人とは「第一婦者、是れ人之身爲る也」と人の身体のことであると解説されます。私の身体ですね。「其身を好愛し第一婦に於いて過ぐる」と、その身体を愛し大事に思うことは他に過ぎることはありません。何と言っても健康第一と思って生きています。
しかし、「命尽きて死に至る」とどんなに体調よくてもいずれ死んでいかなければなりません。「意神は逐に罪福隨い、当に独り遠く去る」と、死んだときには業魂は遂にその罪悪に従って、独り遠くに去って行かなければ成りません。「命が身倒(たお)れ、在る地、隨て去るを肯えず」と、命がなくなり身体が倒れると、そこにいることはできず、身体は業魂と一緒に去ることはできない。当たり前のことですが、身体を置いて死んでいかなければなりません。身体は火葬場で焼かれてなくなってしまいます。昨年、私の親父が97才で亡くなったときには、わずか2時間で焼かれて、骨だけとなりました。火葬場で昼を食べる間に骨となってしまいました。
「第二婦者、是れ人之財産」と仰います。第二婦人は。これ人の財産である。今でいえばお金でしょう。お金は持っていけません。「得るの者は喜び、得ざる者は愁う」。お金を得れば喜び、お金を得なければ憂う、悩みます。譬えで夫は「我、始め汝を求む時、勤苦言う可からず」お金を求めるときの苦しみは言葉ではできないと言っていました。私も日々生活のなかでお金も求めて、気をつかいますし、神経をすり減らします。そうやって得たお金も「命が尽きるに至る時、財宝続いて世間に在る」と、命が尽きるときには財産もお金も引き続きこの世、世間にあります。臨終にいくらお金を持っていても何の足しにもなりません。「亦た自ら隨って去らず」でもって行くことはできません。「空坐之愁苦なり」臨終には空しく座って、あるいは寝て憂い苦しむだけです。
(つづく)