第113回 今村忠毅さん 下    

平成22年8月に長門市の俵山光摂坊での夏安居で深川倫雄和上から「南無阿弥陀仏は声になり給う仏、仏様が口から出て下さる」と聞きます。

同年同月の華光会東京支部法座で、信心を獲た人たちが当たり前のように法座に参加していることが有り難く思えます。S会と全く違いました。京都の華光会館へもこの年に初めて参加します。

本、法話で教義面では理解できたので、毎月、京都、東京、名古屋の華光会の法座に行くようになります。座談では、理屈はわかったけれども、自分は救われていないと発言していました。

瀧山さんの座談で、「絶対的な信仰があるんではないか」と発言すると、瀧山さんから「それだったら、ゼロから聞き直した方がいい」とスパッと答えられます。「阿弥陀様はなんと仰っていますか?」と問いかけられ、自分の聞きごころばかりで、阿弥陀様の方に向いていなかったことが気付かされます。

そのうち、梯和上も、深川和上もお亡くなりなり、本願寺の法話はネットでときどき見る程度となります。

自分の周りの同行の人、S会を退会して勉強している人たちが、とても有り難い存在となります。知人から木村無相さんの「信心はないまま、死なせていただく」という言葉を送ってもらい、「あっ、そうなのか」といままでと心境が違うようになります。劇的な体験はなにもありません。それがコロナ前でした。

コロナで法座が開催されなくなり、三帖和讃、御消息、教行信証などのお聖教に親しむようになります。自分自身に疑ってみても、崩れることもない、南無阿弥陀仏があるので、自分がどうあろうと変わりません。

ハッキリしたことは、自分に往生のタネはないということと、後生の心配だけはすぽっと抜けました。自分のなかに信心は絶対におこらない。蓮如上人の自力を振り捨てるという言葉が自分にピタッときます。

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