2007年の47才から改めての求道となりました。世間的には、米国のサブプライム住宅ローン危機からリーマン・ショックとなり世界的な大不況となっていた時期です。
華光大会、報恩講、永代経、壮年の集い、毎月の聖典講座と、京都に出掛けるようになります。二三代さんには仏教を聞きにいくとは言っていましたが、子ども達は小中高生で家族サービスは毎年の海外旅行くらいになっていました。
当時は、増井悟朗先生は80才を過ぎておられましたが、まだまだお元気で、御法話も座談も厳しいものでした。日高の早田節代さんから、本当に信心決定したいのなら、悟朗先生の座談に出続けなさいと言われ、忠実に守ります。
悟朗先生の両脇に司会の同行の方が座られ、厳しく信心の沙汰をいただきます。S会で聴いていた絶対の幸福、信心獲得の境地を勘違いして目指していたため、なかなか聞き開けません。
世間のことは自分の努力によってほぼ自分の思い通りになるのに、仏法に限っては思ったようになりません。京都に行くのがだんだんと辛くなります。しかし、後生のことを思えば行かずにおれません。私の本質は商売人です。毎月、月次決算で増井信先生と京都でお打合せをしていました。このご縁がなければ、続いていたか怪しいものです。
京都でのご法座から帰ってくるたびに家族に当たり散らすようになります。二三代さんはこれでは家庭が崩壊すると、何を聴いているのか自分が確かめなければと、2009年2月のインド仏跡旅行を契機に、法座に参加するようになります。同じ年の7月からインドで一緒だった地元の金山玄樹さんに毎月、事務所で仏教勉強会をして頂きます。
その同年同月に、瀧山さん同行で増井悟朗先生に家庭法座に来ていただきます。娘たち3人も法座に参加します。広島からもご同行が多数参加されました。そんななか、九州の同行に対して、悟朗先生の厳しい座談が始まりました。ここでしか見たことがない、最初で最後の悟朗先生の五体投地まで見せつけられます。善知識が五体投地された!と周りのご同行方は泣いて感激していました。
その場にいた瀧山さんに言わせると、示談者の前に出ようとされて着物の裾を踏まれて倒れたそうです。京都での座談でその話をしたら、松岡宗純先生は「阿弥陀様のお手回しや!」と仰いました。それでも、わたしの無明は晴れません。
その年の9月の九州法座での増井信先生のご法話で、死にざまは関係ないという話に、二三代さんは鳥肌が立ちます。それまで、夫婦で高額のビジネスセミナーには散々参加していました。ところが仏法では死にざまは関係ないすなわち生き様は関係ないと説かれ、これこそが自分が聞きたかった教えだと頷きます。夫婦そろっての求道となりました。