第114回 山崎隆弘 その1     

この妙好人列伝は、増井悟朗先生が2015年8月に往生される前の月の7月号からスタートしました。第1回で悟朗先生に登場して頂き、ギリギリ「現代に生きる」に間に合いました。その年の5月の永代経の座談では厳しいお言葉を頂いていましたので「まだまだお元気です」と書いていました。それから9年。10年分の120回を区切りとしたいと思います。残りの7回は不肖私を取り上げさせてもらいます。華光誌に体験記は書いていませんので、これをもって替えさせてもらいます。

現在も住んでいる福岡市東区箱崎で1960年に生まれました。出産は徒歩10分のところの九州大学病院です。2,370グラムで未熟児でした。1週間は機械のなかで、退院後は外科医の叔父宅に預けられていました。真っ赤な顔をしてサルみたいだったそうです。叔父は酔っ払うとキーキーと、その時の私の泣き声をよく真似していました。

実家は臨済宗妙心寺派の長性寺の檀家で、浄土真宗とは関係ありません。高校生の時には吉川英治に凝って『親鸞』は読んでいました。東京に出て高田馬場駅で声をかけられ、S会の「歎異抄研究会」に入部します。人生には目的があること、後生に一大事があることを知らされます。

法政大学法学部法律学科に入学しますが、大学にはほぼ通わず、大学1年の時に取った単位は体育の4単位のみでした。土日は北陸などに聴聞に行き、平日は旅費稼ぎのためのバイトと、街頭に立っての勧誘です。

当時は、人数を数えるカウンターが必需品で、声をかけてはカウントしていました。当時の愛読書は仏教書ではなく、日産16年連続トップの奥城良治さんの『強豪セールスの秘密』でした。「トップセールスマンとして成功した男とは、最も多く侮辱と屈辱を受けた男である」の言葉に勇気づけられ、冷酷な断りに耐える三原則を心に刻んでいました。三原則とは①平均の法則、②カエルの面にションベンの法則、③煮え湯の法則です。

この詳しい説明は省きますが、主にF君と一緒に朝から晩まで、新宿駅、渋谷駅、お茶の水駅などで、バカみたいに1日に300人には声をかけていました。そんな生活を5年間送りました。

ビジネスセミナーでこの話をしたら、私が少しは成功しているのは、この時の経験がモノを言っているのではと主催者の栢野克己さんから指摘されました。確かに、これを営業と考えれば、死ぬほど飛び込みセールスしていたことになります。

土日、平日の夜は聴聞の日々です。後生の夜明けは遠く、大学は中退してしまいます。

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