第105回 吉貞翠江さん 上          

広島県安芸高田市の吉貞翠江(あきえ)さんです。2023年に83才になられました。生まれは上海で、終戦時には満州のロシアとの国境付近に住んでいました。

お父さんは「官吏」として日本人を取りまとめる仕事をしていました。ロシアが攻めてくるので、皆で逃げます。5人兄弟のうち、次男と次女と三男は亡くなり、長男と長女の翠江さんはお母さんと港まで逃げてきます。お父さんはロシアにつかまりシベリアに送られるところを脱走し、昼寝て、夜歩いて、港までたどり着きます。家族4人で広島に戻ります。5才のときでした。

広島市は原爆のため母の実家のこともわからず、父親が出身の三次市に身を寄せます。その後、母の実家の事情がわかり、3年後には広島市に家族で出てきました。

吉貞さんのお祖父さんの川手武一さんは米国に移住して、弟の米一さんと一緒に農場を持ってぶどう作りをしていました。そこに日本から羽栗行道先生が回教に来られます。これはこのまま米国にいてはいけないと、羽栗先生が回教を終えられて帰国されるときに、ぶどう農園は米一さんにまかせて、羽栗先生と一緒に米国から広島に戻り、親戚を集めて羽栗先生のお話を聴いてもらいます。

吉貞さんのお母さんは小さい頃から仏法を聴いており、信心はいただいたことになっていたようですが、終戦のドサクサで信心がどこかにいってしまいます。お母さんは終戦後に聞き直します。母が求道で苦労しているのを、小学生の頃から見ていました。それで仏法は聞かなければならないものだとは思っていました。

20才のときに華光会とご縁ができ、5人で広島支部を作ります。吉貞さんの求道が始まりました。24才で結婚し、27才のときに安芸高田市でご主人とタクシー会社を始めます。タクシー会社は、当初は夫婦お二人で、翠江さんが電話番でご主人がタクシー運転手をしていました。いまでは息子さんが事業承継して社員5名ほどの立派な会社です。

子育てと会社経営で忙しい間も、お母さんから、華光誌、悟朗先生の書籍などが届けられていました。

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