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第28回 丸山顕子さん 上

京都市在住の丸山顕子さんです。丸山さんには『いっちょんひげんの彼方』という著書があります。「いっちょん」とは、博多弁でもいいますが、全然、全くという意味です。丸山さんは福岡県の朝倉の出身です。「ひげん」とは嫌いという意味だそうで、「なにもかもイヤだ」というのが小さい頃の口癖でした。

お姉さんの時は、初めての子で大変喜んででいた父が、顕子さんのときには、男の子ではなかったため、ほぼ見向きもされず「要らない子」と思い込んでしまいます。父はキライでしたが、学校に行けなくなったのは反抗や反発からという実感はありません。アドラーの心理学では「復讐」だし、自分でも、仏智を頂いてから、そんな感じはしてましたが、その時は、実感しませんでした。無意識のところだから・・・。

無意識の悪気に気付かねば、本当には変われないのは分かりますが、落ち込んでいる時に人から指摘されたら、ますます傷つくし、理解できない気がします。だから相手によりそうロジャースやジェンドリンの方法の方が好きです。

小六の時、友人からのイジメにより、不登校になります。学校の先生をしていた父親は、自分に対する反抗と受け取り、お父さんから首を絞められたこともあるそうです。高校生の時に父親が亡くなり、17才の時に最初の自殺未遂をします。次に、決して私をありのままに認めてくれない、母親に対する嫌悪感を覚え、社会に適応できずにひきこもりとなります。25才の時に、2度目の自殺未遂をします。

35才の頃、お母さんの定年が近づき、社会への適合を焦ります。カウンセリングを受けていましたが、あるとき「本願寺新報」に載った「真宗カウンセリング研究会」に興味をもち、3泊4日の合宿に参加します。

2017年10月

第27回 山下和夫さん

西光義敞先生が提唱された真宗カウンセリングは、私自身は先生の生前にご縁がなかったため馴染み薄いものですが、山下和夫さんはカウンセリングのプロです。龍谷大学文学部社会学科1年生の授業で西光先生に出遇い、カール・ロジャースのカウンセリングを学びます。1年生の秋には真宗カウンセリング研究会に入ります。

最初に興正会館でのワークショップに参加しました。初めて正信偈をあげますが、違和感を感じてしまいます。松岡宗淳先生が4年先輩としておられました。同研究会主催の「聞法の集い」では増井悟朗先生の座談を受けます。大学卒業後、老人ホーム、児童養護施設で働きながら、カウンセリングの勉強を続けます。

10年後、ロサンゼルスにあるPlay Mountain Place(PMP)でインターン研修生として滞在し、自由の教育を学びます。ここでは「自分を知る」に繋がっていきました。その後、龍谷大学大学院社会福祉学専攻を修了します。しかし、カウンセリングをどれだけ学んでも不安・悩みの解放へとなりません。同時期に華光会で聞き始めます。悟朗先生よりロスの同人を紹介して頂き、米国でも月1回の海野徹雄先生の法座に出るようになります。

帰国後、38才のとき座談で信を獲ます。以下、山下さんの「Person-centered Approach(PCA)と聞法による究極のめざめ」からの文章です。

「仏様がそこまで来ていなさるのやと仰います。増井悟朗先生の話はずっと続きました。最初の内は何となく不思議な感じでしたが、話が良寛様の涙の話になったとき、思わず手を合わさずにはおれないようになり、涙が出て私の腹底を破ってお念仏が出ていました。もったいないやら、うれしいやらで畳の上に体を全部投げ出してしまいました。」

北海道聞法旅行には奥様と参加されていました。いつも楽しそうにお話をされていて、とても仲のいいご夫婦です。

2017年9月

第26回 増井行子さん

三回忌を迎えた増井悟朗先生の奥様、行子夫人です。悟朗先生とは10才の年齢差があります。今年、82才になられます。行子さんは和歌山県の出身です。小学生の頃、高森先生が、当時は京都から数週間、布教に来ていました。その期間は毎晩ご法話があり、大人たちは着物を着てお参りしていました。

お姉さんが先に聞かせてもらっていました。その歓びようが凄く、有り難い念仏を称えていました。小学4年の行子さんも友達と二人で聴聞するようになります。信心を頂かなかったら地獄行きということで、毎晩、40~50人の村の人は、ほとんど参詣をしていたそうです。法話の後、それぞれ集まって、どうしたら信心を頂けるんやろとお互いに示談します。

昼間、お寺に行って欄干にもたれて外を眺めていたら、暗くなってきたので、帰ろうとします。ところが草履がありません。途方にくれてしゃがみ込んで泣いていると、本堂に連れて行ってくれました。本堂の中で泣いていると、光明が西から照らされ、すごい念仏が吹き出てきました。畳の床を突き抜けてまで埋まるほど頭が下がります。地獄に行かないかんという思いがスーッと消え、嬉しいやら恥ずかしいやらになります。

悟朗先生との出会いは14才です。ご法座に来られた時に自宅に寄られていました。中学を卒業する際に、中央仏教学院に行くように勧められ、夜間高校に通いながら、中仏に行って得度を受けます。悟朗先生と結婚されたのは19才! プロポーズの言葉は「一緒に法を伝えていかへんか」だそうです。それに対して「私も一緒について行きます。よろしくお願いします」と応えられます。

悟朗先生の昔のご法話テープを聞くと、行子夫人の笑い声がよく入っています。いまでも、華光会館でのご法話、座談にはいつも顔を出され、お元気です。

2017年8月

第25回 田村直子さん

妙好人列伝は早くも第25回目です。第1回は2年前に増井悟朗先生に登場して頂き、翌月8月に90才で往生されました。「現代に生きる」にギリギリ間に合いました。今回は兵庫県豊岡市の田村直子さんです。お父さんの隅田庄司さんは、悟朗先生からのご教化により、剛信な方だったそうです。

11才の時に、華光会の子ども大会で、地獄のスライドを見せられ、これは困ったことになったと感じます。海水浴での死亡事故を目の当たりにして、これは何とかしなくては、と思います。中学3年までは、毎年子ども大会に参加しますが、高校生になると受験もあり、疎遠になってきます。そして、地元の但馬信用金庫に就職します。

当時は、信心が欲しい欲しいの「信心決定病」になり、20才で信心決定の予定でした。そううまいことはいかず、22才で職場結婚します。華光会館に行かせてもらうことを結婚の条件としますが、だんだんと出にくくなり、行かなくなってしまいます。

ご法座にご無沙汰となり、47才のとき、お父さんからご主人に「華光大会に行かせてやってくれ」と頼まれます。お父さんの運転手として参加します。座談で「念仏を称えなさい」を言われても、ニセはイヤだと称えません。それでも「念仏は難しくない」「もう、あなた死になさいよ」とも言われます。そこで、エイッと飛び込んだら、今度は念仏が止まらない。悟朗先生は「ありがとう。聞いてくれてありがとう」と何度も言われ、「誰かお父さんを呼んできてくれ。直ちゃんの念仏がとまらへんで」となりました。

それまでは、どうしたらいいかと、あーでもない、こーでもないと、違うところばかり見ていました。求め心は頂きもので、聞かしてもらうだけでした。そこを何とかしようとリキんでいただけでした。お父様もどんなにか嬉しかっただろうと思います。

2017年7月

第24回 紅楳英顕和上

2016年の早稲田大学での宗教学会において私が発表したクラスでは、紅楳英顕先生の司会で始まり、紅楳先生の発表が締めでした。内容は「浄土真宗における信前信後について」です。信心を獲れば自覚があると仰られます。同感です。

龍谷大学では、とても厳しい先生との噂で、発表後、緊張してご挨拶に行きましたが、笑顔がとても優しい先生です。『宗教問題15親鸞会とは何か』に載っていること、ネットでの配信などを教えて頂きました。そのご縁で、私も『ヤマサキズム』を送らせて頂くようになりました。

今年の4月29日、紅楳先生のご自宅近くの高槻駅の喫茶店で、二三代さんともどもお話をさせて頂く機会に恵まれました。1980年前半の西本願寺とS会の論争で矢面に立ったのは、ご自身の「信」に自信があったからこそだそうです。当時は浄土真宗本願寺派伝道院(現浄土真宗本願寺派総合研究所)におられました。

S会が西本願寺境内に押しかけた時には、シュプレヒコールで「紅楳英顕を出せ!」と言われたので、居合わせた先生は「私が紅楳英顕です」と出て行かれます。S会は先生の顔も知らずに、実際にご本人が出てきてギョッとします。

紅楳先生ご自身は、龍谷大学1年生の夏休み後の10月の初めに、信心を決定されたそうです。さあ、これから信心の世界を伝える努力をしようと、張り切って龍谷大学の伝道部に入部しますが、顧問の先生から有り難い話はしなくていいと言われガッカリします。

浄土真宗は、社会運動などに精を出すのではなく、信心を決定することこそが宗門が栄える最も大事なことだと強調されます。とても共感できます。信心不決定であることが問題であるとされます。

西本願寺の司教和上を、『妙好人列伝』に載せること自体が失礼なことではないかと憚られましたが、「構いません、そうして下さい」とのご厚情により、載せさせて頂きました。

2017年6月

第23回 藤井英志さん

京都の上鳥羽駅近くに在住の藤井英志さんです。華光会館のある近鉄十条駅の隣の駅です。藤井さんは小学校の頃から、華光会館での増井悟朗先生の習字教室に通っていました。当時、華光会の財政難を解消するため、華光会館において文化教室を開催されていました。日曜礼拝にも通います。

当時、文化教室には300人以上、習字教室には多いときで100人以上通っていたそうです。信先生によれば、そのなかで唯一、ご法縁を結んで、今でも継続しているのは藤井さんだけです。過去世によほどのご因縁があったのでしょうとのことです。

昨年の夏には、京都からわざわざ福岡の家庭法座に参加してくれました。その時に私たち家族全員と食事をし、求道についてお話を伺いまいした。藤井さんからの文章です。

「阿弥陀様に自力の心を照破されるまでは、増井悟朗先生、信先生、同人の皆様だけではなく、真宗と無縁な皆様とのご縁からも様々なご教示をいただきました。
27歳の春、書道教室の日、会館の御仏壇で阿弥陀様のお心を聞かせていただきました。ご報告するなり、増井悟朗先生に『耳ある者は聞け。過去の信を去れ』と教えていただきました。それ故、安易に獲信の看板を揚げず、ひたすら頭を下げて聴聞を続けました。そして、他力回向の信であることがはっきりしました」

華光会館で毎月日曜に開催されている増井信先生の浄土三部経講座では、毎回、華光会のグループメールに要約をアップしてくれます。2月からは阿弥陀経です。

『ヤマサキズム』を郵送すると、必ず「ご恵送くださり、有り難うございます」とメールが返ってきます。「母も奥様の記事から毎回ご教示いただき、参考にさせていただいています」との感想です。

お母さんの幸子さんは、息子である英志さんからのお誘いにより、仏法を聞かれ、昨年のアンコールワット聞法旅行では、私たち夫婦とご一緒させて頂きました。家族ぐるみのお付き合いになります。

2017年5月

第22回 西岡豊子さん

第22回は福井県福井市在住の西岡豊子さんです。阿弥陀仏の第22願は還相回向の願と親鸞聖人は名づけられています。22才の時、地元ののど自慢大会で、あべ静江の「水色の恋」を歌い、バンドのヴォーカルに引き抜かれます。そこで知り合ったベース担当のご主人と結婚します。

33才、1989年にS会高森会長の法話を初めて聞きます。「聞其名号、信心歓喜」の本願成就文のお話で、聞いた瞬間、私はこれが聞きたかったんだと、腹底が飛び上がって喜んだそうです。3人の男の子を車に乗せて聴聞に飛び回り、高速道路を140㎞で飛ばし5回くらい死にそうになったとのことです。

34才、遠方に運転して聴聞に行っているときに、だんだんと薄暗くなり目の前が真っ暗になります。死んでしまう! 誰か助けて!と思ったとき、後ろから叩かれ、バーッと光明がさし、闇が去っていきました。嬉しくて、草や花がダイヤモンドのように輝いて見えます。

義母が亡くなったときには、車でかけつける途中、自分の本性が見え、真っ黒な自分が地球を丸飲みしている、そんな自分を助けてくれるのは阿弥陀様だけだと知らされます。S 会は良い思い出しかないそうですが、ここにいても真実はない、これではアカンという声が聞こえます。

51才、2007年に華光会館に行きます。玄関に入ったら光明の中で、信心頂いた人たちがまぶしく輝いており、全身が法にうたれ、極上の温泉に浸かったようです。義父を2年以上介護し、その間、仏法の話をし続け、亡くなる2週間前に聞き抜きます。最後は念仏を称えながら笑って死んでいき、明るい葬儀だったそうです。

更に実のご両親、3人の息子さん、そしてご主人も、西岡さんのお勧めにより信心をいただきます。今回インタビューして、まさに第22願の還相の菩薩さまと味合わせて頂きました。

2017年4月

第21回 舟本正夫さん

1928年生まれで2017年に89才になられたばかりの岐阜県高山市在住の舟本正夫さんです。正夫さんは、華光会館での報恩講2日間、永代経3日間、華光大会3日間を2006年から、かかさずに撮影しています。誰に頼まれた訳でもなく、「仏様のお言葉を後世に残したい」と自主的にされています。

仏さまが護って下された、せめてものご恩返しだそうです。なんと地元の高山支部では1996年から当初はVHSで撮影し、高山支部法座は全て撮影しています。1994年にNHK「こころの時代」に増井悟朗先生の「求め、捨て、転じられる」が放映されます。その年の11月の華光大会に同郷のご同行はお参りしますが、正夫さんは法事のため、お参りできませんでした。

会館に行ってきたご同行のお話を聞いて、自分は早川先生に夜明けをさせてもらったとの報告するつもりで、奥さんの文子さんを連れて華光会館に行きました。当時、会館から戻って悟朗先生に宛てたお手紙です。

「先生のお身体の悪い時にもかかわらず、おしかけて済みませんでした。恥ずかしい、恥ずかしいの毎日で過ごしています。お尋ねした翌日、菜洗いの手伝いをしながら、今日も生かせれていた、仏様にご用があったのだと気付かされました。1971年肺病で1年入院、1977年脳内出血で頭蓋骨を外して洗ってもらう大手術、1993年夏、心臓が苦しくなり救急車で病院へと、まだ判らんか、まだ判らんかのご催促のお知らせがあるのに、平然と横着な私に、仏様はたまりかねて立撮即行(りっさつそくぎょう)となって、家まで来られたとき、醜い浅ましい、うぬぼれの自分、番頭心で見る自分と聞かされたとき、お念仏が吹き出てきました。」

文子さんは、その翌年の8月の京都の聞法旅行の帰りに、華光会館の事務所で悟朗先生にご挨拶しに行ったところ、先生とのやりとりの中で「南無阿弥陀仏!南無阿弥陀仏!」とお念仏に飛び込まれました。

大きな三脚に付属している椅子は、近所の鍛冶屋さんに作ってもらったそうです。そこに座って撮影されている姿は、華光名物となっています。

2017年3月

第20回 森崎立也さん

華光誌は1941年の発刊から2017年で76年目になります。ですから、当初の発行者である伊藤康善先生の生の法話を直接聞いた人は、珍しくなってきました。福岡県朝倉郡筑前町の森崎立也さんは、その数少ないお一人です。

森崎さんが小学2年生の時に、父親が35才でお亡くなりになり、人は必ず死ぬ、死んだらどうなる?ということが問題になってきました。22才の頃、当時は北九州市、甘木市(現朝倉市)に伊藤先生、増井悟朗先生が毎年のように来られていました。

京都の華光会館の法座にお参りし、地元では法話テープを聞いて、華光誌を読んでいました。ある晩、伊藤先生のテープを聞きながら寝ました。心の中には本当に仏様はおられるんだろうか?という思いが湧いてきます。目にも見えないし、匂いもない。何か不思議なことがちょっとでもあったらなーと思います。

その時、私の口から念仏が出ているということが、仏様がおられる何よりの証拠という声が聞こえたきました。ハー、そうか! 遠いところにおられると思っていたが、現在、説法をしておられる。念仏がそうであったか!と嬉しくなりました。

テープを聴き直すと、これまでとは全然違って、内容がスーッと入ってきます。今までは頂きたい頂きたいで聞いていたので引っかかっていました。それがその通りです、その通りですとなった。聞き耳を頂きました。

その後、10年は信後の聴聞に励まれたそうです。仏様がおられるということがハッキリ判りました。念仏への注文がなくなりました。念仏が噴き出した訳ではありませんが、自力の念仏も他力の念仏も称えようという心、もとは一緒であり、どんな念仏でも一緒であると、森崎さんの弁です。

現在は、年に2回、私の家庭法座には欠かさず、森崎さんは参加されます。伊藤先生の話を直に聞いた方のお話、お味わいですので、とても有り難いご縁です。

2017年2月

第19回 増井信先生 下

父親の増井悟朗先生に「聞かせて下さい」とお願いすると、「1つ大事なことがある。命をかけて聞くか?」と尋ねられます。「はい」「南無阿弥陀仏に飛び込むんや」と仰ります。自分の業魂と阿弥陀様との命のやりとりです。お念仏を申させてもらい、その後の記憶がありません。これで聞かせてもらったと安心します。小学4年の時です。

18才になり龍谷大学に入学します。大学には信仰がなく、世俗化していることにガッカリします。19才で得度をし、華光会の「人生を語る会」で体験発表をすることになりました。ところが、仏法の話ができません。自分は信を獲ていないと告白します。

悟朗先生と行子夫人が、道場の隅で、「困った」と相談話しているのが目に入ります。そして悟朗先生とのご示談になります。引っかかったのは、助かりたいと思って聞いているのに、「なぜ地獄一定」なのか? そこの薄紙一枚が破れません。畳をかきむしりながら、号泣し「わからん、わからん!」と七転八倒します。

自分の心の変化ばかりをみつめていました。「今、称えたら、心は変わっていないから、自力の念仏ではないですか?」と尋ねます。「南無阿弥陀仏に自力も他力もない!」との悟朗先生の応えです。そこで「あっ、そうか。念仏するぞ!」と言うと、姉の聞子さんが「念仏に逃げたらアカン!」と叫びます。

構わずに念仏称えたら、「地獄一定」が判ってしもうた! 見えた、出会えた! スパーと抜けて慶びが湧いてきます。大笑いします。深夜0時過ぎに銭湯に行って、汗、涙、鼻水を流します。嬉しくて一晩中、華光誌を読んだそうです。

現在は、華光会館の代表役員として、華光同人を指導・教化されています。年に2回、福岡の私の自宅で2日間法座をして頂いています。私の京都での行きつけ、烏丸御池にある「じじばば木馬亭」は信先生からのご紹介です。夫婦ともどもお世話になっております。

2017年1月