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第7回 首藤澄子さん

いつも九州法座、家庭法座でお世話になっている首藤さんです。大分在住なので京都ではお会いしませんが、福岡、熊本、大分などの九州での法座では必ずお参りされています。首藤さんの念仏、お味わいは九州法座の名物となっています。

1989年から浄土真宗にご縁があり、当初はS会で6年間聴聞してもわからず、その後、華光会にご縁があっても聞き開くまでに更に7年間かかったそうです。

なかなか聞けずに苦労したと、今でも述懐されます。座談でもいつも同じことの繰り返しで、何を言われるかもわかっているけれどもどうしようもなく、座談がイヤでしょうがなかったそうです。今の姿からは想像できません。

光が見えず、助けて下さいとすがっても、助からんぞ!とはねつけられ、わからん、わからんと言っても、あなたがわかる法ではないと言われ、真っ暗になり、光が見えなくなりました。当時は、自分から仏様をつかまえに行っていました。

NHKの朝ドラ「すずらん」で、赤ちゃんの時に捨てられて20年ぶりにお母さんに会った主人公が「おかあさん、生んでくれてありがとう」と言ったときに、あーそうかと得心しました。

私が仏様を探していたけれども、仏様が私を探していたではないか。地獄に堕ちなければいけないと思っていたけれども、堕ちるから仏様がついていてくれていた。自分は地獄に堕ちる者かもわからん、仏様もわからん。あーそうだったのか、私の口をかりて南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と呼んでくれているではないか。「唯除五逆、誹謗正法」がわが身であった、私には微塵も用事がなかったと。

法座中には首藤さんの念仏の声がよく聞こえます。この原稿のために電話で改めてお話したときも、次から次とこぼれるお味わいは、まさに仏様のご説法でした。南無阿弥陀仏。

2016年1月

第6回 孤杉英章さん

2015年11月21~23日、京都の華光会館で、増井悟朗先生の追悼法要がありました。中日の22日の午後に私も10名のうちの1人の法中として参列させて頂きました。

その日の午前に、孤杉先生のご法話がありました。孤杉英章先生は、大谷派教行寺(奈良県北葛城郡)のご住職です。悟朗先生を偲んでのお話をされ、とても感銘を受けました。妙好人となると在家の人のイメージですが、失礼ながら6人目の妙好人として書かせて頂きます。

孤杉先生は悟朗先生のことを「魂の師」と言われます。流転輪廻してきた迷いの身から浄土行きの身にして頂いた大恩人であると。葬儀のときに、私の目の前でお経をあげておられましたが、ずっと泣かれていました。正信偈の半分も唱えられなかったそうです。その時の涙は、悲しみの涙ではなく、あーよくぞ自分はこの先生にお会いできたなーという喜びの涙だったそうです。

真実の救いを求めて、大谷大学の学長に質問したり、大谷専修学院の校長の家にまで押しかけていったけどもわからない。そんな中、悟朗先生のお話をきいて、それまで聞いたことのないお話でビックリします。阿弥陀さまは生きておられるんやなと実感したそうです。

しかし、それから信心決定までは時間がかかったそうです。自坊に悟朗先生をお招きしてご法座を開いた翌日に、ご自身の心境を先生にお話します。それに対して「孤杉君は自分に値打ちのないことを聞かせてもらったんやね」と言われ、そこで「あーわかりました」と阿弥陀様に全面降伏して、わかったそうです。サッパリとした心境です。善知識とはたいしたもんですとの述懐です。

また、孤杉先生のお祖母ちゃん、お母さんも悟朗先生から聞かせて頂き、生れてくる前から仏法聞くための準備をして下さり、二重のご恩があると喜ばれています。これからも尊いご法話、よろしくお願いいたします。

2015年12月

第5回 舟本民子さん

2015年10月10、11日と岐阜県の飛騨高山でのご法座に参加しました。地図で見ると、名古屋市よりも富山市寄りです。ここ高山市には、妙好人の方がたくさんおられます。そのなかの舟本民子さんです。

お話を伺うと、昭和の時代から、早川先生という方が布教に来られ、夜遅くまで熱心にお話をされていたそうです。民子さんのお母さんである東じつさんは熱心な念仏者であり、小さい頃から「民子、聞法は大事なことだから」と勧められていました。

民子さんは、当時は「そんなに押しつけられても聞けん」と反発していたそうです。20数年前に早川先生がお亡くなりになり、高山の同行方は、後生の一大事の解決のために善知識を求めます。1994年1月にNHKの「こころ時代」に増井悟朗先生が出られ「求め、捨て、転じられる」が放映されます。

番組の中で、後生の一大事とそれが解決され転じられる世界があることを仰り、高山の方々は「この方だ!」と早速、京都の華光会館に連絡を取ります。まずは民子さんの実弟である東勝廣さんが、連れ合いの悦子さんと、悦子さんの母、新井茂子さんと会館に行って悟朗先生に遇われます。

そして、東さんを始め、民子さん、長男の賢也さん、次男の大坪達也さん等々、次々と信を獲られます。10月の高山法座は、求道中にお世話になった大分県の首藤さん等がたくさん集まっていました。私も高山は3回目です。

民子さんとは仏跡旅行で、インド、シルクロードに一緒に行かせて頂き、二三代さんが大変お世話になっています。

今回の分級座談では「私だけでは、いい・悪いがわからない。先生に遇わせて頂いた。先生方によくしてもらった」と繰り返し言われ、泣いて念仏をされていました。南無阿弥陀仏

2015年11月

第4回 谷本朗さん

兵庫県豊岡市の谷本朗さんです。昭和34年2月生まれです。

朗さんの名付け親は今年8月にご往生された増井悟朗先生で、悟朗先生から一字もらわれています。息子さんの増井信先生は、自分が生まれた時には「朗」の字は使われていたので「信」になったと仰っています。

平成17年に豊岡市に合併するまでは日高町でした。60年ほど前から悟朗先生が布教され、強信の同行方がたくさんおられます。朗さんのお母さんの谷本初代さんは独身時代から悟朗先生の法座にお参りしていたそうです。

朗さんは、こどもの頃から仏教的なものに興味がありました。中学時代に高田好胤師(法相宗)の『心』を愛読していたそうです。高校2年秋に父親と死別、葬儀のときの「白骨の御文章」が妙に心に残ります。その後、浄土宗系の京都の佛教大学社会学部に進学します。

その大学時代の身元保証人を悟朗先生が受けて下さり、それからが何も知らない朗さんが日曜学校、仏青、法座等でご法と関わっていきます。求道を意識することなく求めていきます。その朗さんの後生の目覚めをお取りつぎされたのも悟朗先生で、大学三回生の秋。「自分が死んでも変わるものがない」と「人世間愛欲の中に在りて独生じ独死し独去り独来る・・・」を痛感します。

40才の時に脳梗塞、脳内出血により入院します。朗さんは、この入院中にあらためて『真宗聖典』『仏敵』『親指のふし』などを読み直し、有田修司さんから報恩講のお世話役を依頼されたのを機に、華光会に戻ります。朗さんは、獲信してからの方が聴聞の中に生活があることを知らされます。

現在は華光会の運営委員長を務めています。親鸞聖人750回大遠忌法要、増井信先生継職法要、増井悟朗先生の葬儀の役にあたったことを不思議なこと、有難いことと、南無阿弥陀仏を慶んでいます。

大遠忌法要の記念パーティの席では、司会をしている二三代さんの隣の席で、感極まって大声で号泣念仏していました。マイクの声よりも大きな念仏が、とても印象的でした。

2015年10月

第3回 金山玄樹さん

今月の妙好人は、毎月、事務所で仏教勉強会をして頂いている金山玄樹先生。私の得度は、金山さんの実家である浄円寺を所属寺として受けました。

勉強会当初は「安心論題に学ぶ」(内藤知康著)をテキストに毎月一論題づつ進みました。私が大学院を考えたのは、ここで安心論題を学んだことがきっかけです。金山さんは龍谷大学卒で、大学院では内藤ゼミ出身です。

龍大在学中には、真宗カウンセリング研究会に参加し、西光義敞先生の教えを受けています。座談時のカウンセリングのうまさにはいつも感心させられます。

おばあちゃんは強信で有名な方で、「畳一枚下は地獄やぞ」と小さい頃から仰っていたそうです。華光会の子ども大会(夏の合宿)に小学校の頃から参加していました。

龍谷大学、大学院時代は、華光会館に通い、法を求めましたが、なかなか聞き開くことができません。求道中に、松林由美子さんから、「玄樹君はご縁が整い過ぎていつでも聞けると思っているんやろ」と言われ、愕然としたそうです。

大学院も修了が近づき、福岡に帰らなければならなくなった頃の増井悟朗先生の座談会で、なかなか自分から聞かせて下さいと言えず、後から求めて先に聞き開いた女性から「玄樹くんのいくじなし」と言われます。それでも、こんな自分では念仏を称えないぞと頑張ります。

首をうなだれている時に、席を立っていた悟朗先生が戻られ、「どうしたんや?」と優しく声をかけられ、諄々と法蔵菩薩のご苦労から話されます。「この法だけは人に譲ってはいかん」と説かれます。金山さんは「自分は聞けないものです、これで聞法は終わりにします。申し訳ありませんでした」と謝ります。気づいたら念仏が口から出ており、今までの小さな喜びこころまで持っていかれて、すっかりと空っぽになったそうです。

先日の私の初法話の際にはわたしの味わいに対し、泣いて慶んで下さいました。これからもお世話になります。

2015年9月

第2回 瀧山真理さん

妙好人お二人目は、華光会館で事務をしている瀧山真理さんです。ご法話中の瀧山さんの笑い声は華光名物となっています。華光会のCDには瀧山さんの笑い声がほぼ収録されていると言っていいでしょう。

私が最初に華光会館にお参りしたときは、近鉄十条駅からわずか徒歩3分のところを迷ってしまい、表まで出て手招きしてくれました。阿弥陀様の招喚と味わえました。

もともと富山県のお寺の生れですが、ご縁があったのは2泊3日の西光義秀先生の真宗カウンセリングです。約30年前のことで、松岡宗純先生なども参加されていたそうです。

当時は、造園業の会社の秘書をされており、2ヶ月に1回くらい、法座に参加していました。仏法を聞いて、虚仮不実の自分が照らされ、「自分の身体も滅ぶんですか?」と愕然とします。

教えを聞けば聞くほど、自分のモノガラが知らされ、これは助からんぞ!と地獄一定の姿に泣きました。そして、私一人に願いをかけてくれ、大事にしてくれる阿弥陀様がおられる、生きて働いておられることが知らされました。

悟朗先生からは「あんたはそのまま聞いてきたな」と仰ったそうです。

熱心に、未信の方にかかわって勧める姿は、まさに菩薩さまです。座談会でも、カウンセリングで鍛えたヒヤリング力で、丁寧に聞いていきます。

私にとっては、菩薩さまと同時に、経理担当者です。少し失礼なことでも口走ろうものなら、情け容赦なく、パンチがみぞおちに飛んできます(誇張ではありません)。

この原稿を書くに当たって、インタビューをさせてもらいましたが、うちのヒカリと意気投合したようで、厳しい指導が内からも外からもありそうです。

2015年8月

第1回 増井悟朗先生

今月号から始まります「妙好人列伝」。第1回目の登場は、妙好人というよりも、私にとっては善知識になります増井悟朗先生です。

善知識とは、仏法を正しく導いて下さる先生をいいます。反対に悪知識に従っていては絶対に助からないとも言われます。阿弥陀様とのお取り次ぎをされるのが善知識です。

増井悟朗先生は1925年(大正14年)生まれで、2015年6月7日の誕生日で満90才になられました。ほんの数年前まではご法話をされていました。現在は華光会館での座談に時々顔を出されます。私が出会った頃は82才で、当時は毎週のように説法、座談をされていました。

悟朗先生は17才の時に肺結核を患い、懲役検査に受からず、戦時中は療養生活をしておられました。『心に咲く花』という有難そうな本を注文したら、あやまって『仏敵』(伊藤康善著)が送られてきたそうです。

まず書名に驚かれましたが、もっと驚いたのは、想像を絶する信仰体験でした。最初は信長のことを書いた本かと思われたそうですが、著者が仏教大学(現在の龍谷大学)に通っているときの、求道物語が綴られています。

序文に「この書は、3回読んで、3回とも意味が変わらねばだめだ」と書かれており、連続3回読まれます。息子さんの増井信先生のお話では、この3回というのは、信前・信一念、信後のことだそうです。

「もし獲信できずば、治病すとも床から立たじ」の決意を固め、3ヶ月ほどの求道のすえ、翌年2月に獲信されます。この時のお話は、座談のなかで何度も聞かせて頂きました。

悟朗先生にとっては、伊藤康善先生が善知識となられます。「華光誌」を創刊されたのが伊藤先生。「華光会館」を創設されたのが悟朗先生となります。

悟朗先生の座談は厳しいものでした。求道中は、先輩からの勧めもあり、悟朗先生の座談にばかり参加していました。今年の永代経の座談では厳しいご指摘を頂き、つまらんこと(世間事)を話してしまったと反省しました。まだまだご健在です。

2015年7月

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