岐阜県高山市の東悦子さんです。彫刻家の東勝廣さんの奥様です。お母さんが念仏者で小さい頃から両親と一緒に法座に参っていました。悦子さんがお腹にいる頃からお母さんは法座に通っていました。
当時は、早川先生の法座があっていました。早川先生は、死後の世界があることに驚き、後生の一大事の解決を求めて、会社を退職して求めたそうです。法が詰まってきたとき、大根のつけものの一番いいところを食べようとして、わが身が知らされ、泣き崩れ、聞き抜かれます。
悦子さんは、小学校5年生の頃より近所のお姉さんと、早川先生の法座の追っかけをします。悦子さんは御法を聞きたい一杯で求めていきます。
中学校卒業後、岐阜県大垣市に就職します。その後、22才の時、東勝廣さんと結婚します。その翌年、早川先生はお亡くなりになります。讃岐の大西先生に聞きなさいと遺言されます。高山のある同行が富山のお寺にお参りした際に、たまたま大西先生の法話があり、高山でのご法座をお願いします。二つ返事で高山に来られ、最初は大きなお寺の本堂が一杯になるほどの聴衆でした。
大西先生の場合、6才でお母さんを亡くし、心の親と会うために、寺に入って教学しながら求めます。布教しながら自らも求め、大きなお寺で布教した際に、一緒に求めていた法友を見かけ、その態度に先を越されたと思って、法座での話す言葉がなくなり、お参りの聴衆に対してどう解決するんですかと尋ねます。誰も応えないので頭を下げ御免こうむりますと、法話をせずに帰ってしまいました。
そのまま「やっさん」というお爺さんのお家に足が向き、そこで目の悪いお婆さんから薄っぺらい座布団を勧められます。そこで、その薄っぺらい座布団が、高くて高くて、その申し分のなさに泣き崩れます。一晩中、泣き明かしたそうです。その時、大西先生は29才でした。
その大西先生は、それから年に4回、5日ずつ高山に来ていただけるようになりました。その後、同行は20名くらいに減っていきますが、10年は続きました。