2021年 の投稿一覧

第70回 岡田美智子さん 上

京都市の岡田さんです。自宅から華光会館まで徒歩圏内です。33才で見合い結婚します。41年前のことです。ご主人が華光会にお参りしており、結婚相手に身体が丈夫な人、仏教とご縁がない人が希望だったそうです。黒河達児さんが仲人で、悟朗先生も参列です。結婚後は、黒河さんの自宅に遊びに行っては奥さんにお世話になっていました。

秋の仏青大会の後に、新婚家庭に小枝夫妻、松岡夫妻などが立ち寄ります。皆さん、もの凄く楽しそうに仏さんのことを話しているのが印象に残り、一人で増井悟朗先生の「婦人講座」に参加してみました。その時は、詳しいことは判らなかったけれども、南無阿弥陀仏は死んだ人に言う言葉かと思っていたら「寿命無量、光明無量の阿弥陀様から死なない命をもらう。あんたにはあんたに合うた仏さまがついておられる」と聞き、エーッとビックリします。

ただ、その時はそれだけで、ご主人のお母さんも華光会館にお参りしており、家族円満のために聴聞に行くようになりました。だんだんとお母さんの介護が大変になり、黒河さんの支部新聞「親聞」を読むだけとなっていました。その間も、華光会館の近所ということで、通院中の悟朗先生や、甘露ちゃんを乗せベビーカーを押している信先生にときどきお会いします。「元気にしてはりますか?」と優しい言葉をかけられます。

信先生からの平成15年の年賀状に「ふらーとお越しください」と書いてあり「仏法を聞かへんかったら地獄に行かなならん」と思い、報恩講にお参りします。自分では仏さんのことを聞いているつもりでも、座談では今生ごとばかりです。わからず苦しんでいる岡田さんを見て、華光会館の階段の踊り場で、九州の有田さんから「岡田さんは三千大千世界から見放されてる」と声をかけられ、家に帰って大泣きします。長男が「いじめられたんか?」と心配しますが、ご主人はニコニコしています。

2020年4月

第69回 表口稔さん

三重県在住、2021年で63才の表口さんです。京都産業大学時代に京都市バスの広告を見て、S会の講演会に行きます。実家の三重県の方で20代の5年ほど活動していましたが、イヤになってプツッと行かなくなりました。

41才の時に、宝島社からの『「救い」の正体。』を読んで華光会のことを知り、華光会館にアポなしで行ってみます。1回目は途中で引き返しましたが、2回目に増井信先生に対応して頂きます。その年の12月に東海支部の法座に参加し、伊藤友一さん、栗田さんにお会いしました。栗田さんにはとても親しくして頂き、お世話になります。

2ヶ月に1回の名古屋での法座に参加するようになります。三重県からは1時間超かかり、駅に着いては苦痛を感じて、何度かそのまま帰ってしまったそうです。1年に1回くらいは京都の華光会館にも顔を出します。

50才になって久々に華光会館の法座にお参りします。私にとっても忘れもしない1階の事務室での分級でした。自己紹介のときに、表口さんは「京都は久々」と言われ、泣かれています。改めて伺うと、仏法のことではなく自分の常日頃が思うようにならなくて悔しくて泣いていたそうです。

当時は私も求道中でしたので、自分のことで頭が一杯でしたが、気がつくと、今泣いていた表口さんが回心しています。その時の謎を、今回のインタビューでお聞きしました。

隣りに座っていた舟本賢也さんが表口さんの耳元で「表口さん以外の皆は救われるけれども、表口さんだけは救われんよ」とささやいたそうです。聞こうとして聞いた訳でもないのに、頼みもしないのに耳に届いてきました。エーッと、呆然です。自分の思いに関係なく、聞いてしまった!

それからは、ご法を勧めている人の気持ち、求めている人の気持ちが分かるようになります。その場で求めていた私も唖然です。こちらは毎回、法座に出て求めているのにと、ショックでした。表口さんにお会いすると、いつもその時のことが思い出されます。

2020年3月

第68回 平阪彰さん 下

後生の一大事がわからず、海面で溺れているような状態です。先生からは海の底の底だと言われます。自分の力では手も足もでない。浄土に参りたいと思いますが、仏様をたよりにするしかない。救ってもらうしかない。

自分が海の底にいるとわかった時、仏様との関係がわかりました。仏様は私を食べて下さると言われる。私が仏様のまな板に乗ることだ。身につけていることを一つ一つ捨てていく。最後は業だけが残る。業を背負って南無阿弥陀仏のまな板に乗る。家、家族、全てを失ってまな板に乗って食べて頂くと味わいます。

そうなると、私ではなくなる。私でない私に作りかえて下さる。するとどうなるのか? 材料にはなることができる。それが今の平阪さんの喜びです。

更に平阪さんのお味わいです。私は百姓。田んぼに有機肥料、化学肥料をまきます。牛糞、鶏糞なども入れ、立派な土になります。土は肥料を入れるための袋で、それにより植物は育ちます。仏様の力が汚い牛糞である私に働いていて下さる。

平阪さんは2020年2月に華光会のインド仏跡旅行に行きました。コロナ騒ぎでギリギリのところでした。インドは凄かった。混沌とした世界で、活気が溢れていた。お釈迦様が『無量寿経』を説かれた霊鷲山では、丁度、夕陽が沈むところで、とても感動しました。

昨年の華光大会での企画行事では、お互いに二三代さんのワークショップ組となり、平阪さんと私のペアとなって、一方が阿弥陀様となって、対峙しました。私が阿弥陀様のときには、平阪さんの質問に対して、ビシッと(一応)答えさせて頂きました。

平阪さんが阿弥陀様のときには、私の日頃の慶びの感謝と、今後の決意を述べさせてもらいました。他のペアでは、獲信する人あり、号泣しあうペアありで大盛り上がりとなりました。

2021年2月

第67回 平阪彰さん 上

1950年生まれで2020年で70才の平阪さんです。飛騨高山の高校を卒業後、日本電信電話公社(現在NTT)に就職します。55才からお寺での「正信偈を読む会」に参加していました。国府町(現在高山市に編入)の年1回発行の機関紙に「何のために生きているか」の題で随筆を書きます。

その文章を舟本民子さんが読んで、法座に誘わなければと思います。平阪さんの奥さんが民子さんから民謡を習っていた関係で、奥さんを通して法座に誘われます。それが60才のときでした。その一年くらいまえから、仏様は私のようなものを呼んでくださっているとどこかで思っておりました。そう思うたびに、胸が締め付けられ呼吸が苦しくなってきます。その年の華光会の「壮年の集い」に参加します。

増井悟朗先生の分級で同じく高山の大坪逹也さんが司会でした。念仏を称えて号泣します。しかし、大泣きしても何も変わっていないことに気付きます。念仏だけは出るようになりました。ナチス強制収容所体験をつづった『夜と霧』を読み、何の為に生きているのかを問い続けても無駄なことかと思えてきます。「人生があなたに期待している」ことを考えなさいとありました。その「人生」を「仏様」に置き換えてみて、転換します。

翌年1月の報恩講で増井信先生のご法話で三信は仏様の心ですと聞きました。そこでハッとします。獲信するのは、私の気持ちは関係なく、仏様の呼び声にハイと返事するだけだと、素直にハイと返事ができました。その時の松岡宗淳先生の分級で、ハイと返事できましたと報告します。何か印しがあるんじゃないかと2~3ヶ月考え続けましたが、お前の心は何も関係ない、何かをみつけても何も関係ないことだと判らせてもらいます。

しかし、後生の一大事がわからない。モヤモヤしています。現在地を知りなさいと言われます。

2021年1月

第66回 松岡稜季さん

京都文教大学4回生の稜季(いつき)ちゃんです。来年、大学院進学予定で、心理士(カウンセラー)を目指しています。兵庫県の日高町、現在は市町村合併により豊岡市の出身です。谷本朗さんのご長女です。日高といえば、華光会の名物妙好人を輩出した法の厚い土地柄です。

稜季ちゃんは3才の頃から日高法座に出て、お父さんのひざの上で大人しく座っていたので、珍しい子やと感心されていました。小3~中3まで華光会の子ども大会に、毎年、楽しみに参加していました。仏法が話せて、言いたいことが言える座談が好きだったそうです。地獄のスライドを見ても、実感がわかず、全然怖くなかったそうです。

高校生になって部活で忙しくなり、一時、ご縁が遠のきます。京都の大学に入学し、1回生の3月に華光会の事務局にバイトで働くようになって、同月の日高支部法座に参加します。お父さんの朗さんが20才で信心を獲ていたので、自分も20才までという目標があったそうです。19才になっていました。

日高法座で聞けると思っていたところが、聞けずに翌月4月の永代経に参詣します。2日目の懇親会で、朗さんに押し出され、増井信先生に「わかりません」とご示談します。信先生は阿弥陀様に相談しなさいと言われ、仏壇に向かいます。横では朗さんが「ごめんなー」と謝っています。周りにいたご同行も各々お勧めになります。

いつきちゃんが「今のこころのまま称えてもウソだ」と言うのに対し、信先生の「どこまでも私にはウソしかない。南無阿弥陀仏だけがまこと」のお導きに、号泣念仏となって、念仏があふれ出ました。その後、いつきちゃんの信心は、ご本人の弁によれば、喜べないことに疑問を感じ、崩れまくっているそうです。最近は、私は変わらんもんやと気付かせてもらっています。

今年の永代経では信仰体験発表をされました。分級では、年配のご同行から「若いのにどうして仏法を聞いているの?」と尋ねられ、「本当のことが聞けて嬉しいから」と即答するいつきちゃんでした。

2020年12月

第65回 梶谷洋一さん 下

高山での法座の最中、昼過ぎに京都に帰ろうとしたところで、なんと増井悟朗先生が「帰るのか。それならお見送りをせんとな」と出てこられます。梶谷さんと井上さんが車に乗って出発しようとすると、悟朗先生がニッコリ笑って片手を挙げて「ご出棺でーす」。

車の中で、ゲンの悪いことを言われるな~と話していたら「ちょっと待てよ」となります。意味の無いことを先生が言われるだろうか?「言わない」。どういう意味だろうかと考えます。クネクネの山道で今にも落ちそうです。沈黙の後、井上さんが顔をこちらに向け、「おい、先生は『お前たち、明日のことを気にして早く帰ろうとしているが、本当に無事に帰れると思っているのか?』と言いたかったのと違うか?」。

「そうや、その通りや!」。真っ逆さまに地獄に堕ちていく自分の姿が見えました。井上さんと二人してパニック状態になります。「エライこっちゃ! 堕ちていく!」となります。所詮、自分は堕ちていくしかないんやと自他力の廃立がたちます。この時の恐怖は、何年経っても忘れることができませんでした。

最近は、梶谷さんは私の分級によく参加され、お味わいを聞かせて頂いていますので、今回のインタビューをさせて頂きました。全ては始めに悟朗先生ありき、だったそうです。最後に、この原稿のやり取りのなかで頂いた、梶谷さんご自身の文章です。

「考えてみると5年のブランクも決して無駄ではなかったと思っています。悟朗先生はよく『こっちが仏を忘れることがあっても仏は決してこっちを忘れることはない』と仰っておられました。この私の底無しの罪業の底に飛び込んで下さったのですから、どこに行くのも一緒なのは当然ですね。映画『ベルリン天使の詩』のピーター・フォークのようです『見えないが、いるな」という感じです。 南無阿弥陀仏」

2020年11月

第64回 梶谷洋一さん 上

京都府伏見区出身、現在は宇治市在住の梶谷さんです。1958年生まれで2020年現在、61才です。華光同人の井上頼子さんのご子息典之さんと20代の頃からお友達でした。

梶谷さん37才のときに、典之さんから11月の華光大会に誘われます。仕事の都合で最終日だけの参加でした。そこで増井悟朗先生のご法話で後生の一大事、宿善を聞き、エーッとビックリします。その後の全体座談で、悟朗先生に突っかかっていったそうです。「ご法話のなかで「人間は糞袋」と言われていましたが、確かに汚いところはあるが、それを隠そうとするのは当然ではないですか?」

その質問に対し、逆に「なんでや?」と先生から問いかけられます。まさか自分に質問が来るとは思っていなかったので、なんでと言われても・・・と、言葉をなくします。そこで一言「こわいのか?」と聞かれます。その時、手のひらは汗ビッショリでした。そのとおりだったから・・ コテンパンに「ア~やられた」と思ったのと同時に、「この人に間違いにない」の意を強くします。

それまで怖いものはなかったそうですが、「この人には勝てない」と怖いものができました。大会数日後のファミレスで、井上さんから「宿善あるやないか」と言われ「あるのか?」と問い返すと、「悟朗先生があれだけ言ってくれたのだから無い訳がない」。

更に「仏さんは自分の横を指さして、ここ『お前の場所はここだぞ』と言うてくれているんやないか」と言われ、梶谷さんの頭の中でビッグバンが起こりました。「あっ、そうであったか! 仏様の本願とは俺を仏様にすることか。これはエライことや!」と、その夜は嬉しくて、念仏が出て止まりません。

後からふり返ると、この時は、まだ縁他力でした。次の年の夏に高山での「壮年の集い」に井上さんと参加します。一泊して、翌日の仕事に差し支えるので、法座の途中で帰ろうとします。そのとき悟朗先生の神対応ならぬ仏対応が炸裂します。

2020年10月

第63回 小山ひとみさん

三重県在住の小山ひとみさんです。昨年「壮年」を卒業され、2020年は66才です。同年2月22日にお亡くなりになった伊藤友一さんとの深いご因縁です。友一さんと小・中学校同じで、34才の時に同窓会がありました。企画したのが小山さんの親しいお友達だったので、参加してみました。当時、仏法に燃えていた伊藤さんから、目をランランと輝かせてお勧めを受けます。

名古屋での仏青に参加し、2回目、華光会館をご主人に見定めてもらおうと一緒に参加します。ご主人が増井悟朗先生を気に入り、家庭では「悟朗ちゃん」と呼んでいたそうです。ご主人の「行っていいよ」の言葉により法座に参加するようになります。

しかし、なかなか聞き開けません。増井信先生から東の横綱と言われます。西の横綱は広島の吉貞さんだったそうです。13年経った2001年の永代経で早田節代さんから日高法座に誘われます。瀧山さん運転の悟朗先生の車に同乗させてもらい、お参りします。

節代さんの自宅で初日の法座があり、そこに泊めてもらいます。夜遅くまで、瀧山さんとご法のことで話し込みます。つい最近判ったことですが、悟朗先生はご示談の出番があると、寝ずに待っておられたそうです。それだけ切羽詰まった顔をしていました。翌日、隅田さん(田村直子さん父)にモーニングを誘われ、歩いているときに「不可称不可説不可思議」の声がズーッと聞こえます。小山さんはその言葉を知らなかったそうです。その日の法座後の座談で、瀧山さんから押し出され、念仏が止まらなくなりました。

小山さんは子育てもあって法座に出れなかったときも、華光誌の誌上法話のテープ起こしを20年近くしており、そのお育てが大きかったそうです。それと伊藤さんとのご縁です。

聞かせてもらって20年後の今では、名古屋での法座は皆勤賞、華光会館法座もほぼ参加され、現在は運営副委員長としてご活躍中です。最近は信先生のご法話が厳しく、もっと聞かないといけない、座談ではもっと自分自身を出していかなければとの思いを新たにしているとのことです。

2020年9月

第62回 岩城明子さん

横浜市在住の岩城明子さんです。出身は安芸門徒の広島です。小さい頃から、祖父母宅で月に1度、家庭法座が開かれていました。中高一貫の広島女学院に入ります。実家を出て、祖父母のところに下宿して家庭法座の手伝いをしていました。

学校では卓球部に入り、部長で同級生の久保裕子さんと出会います。社会人となり結婚もした頃、裕子さんから華光会の仏青の案内や、華光誌が送られてくるようになりました。裕子さんの呼びかけにより、1998年9月に卓球部合宿として華光会館に集まります。2000年9月の2回目の合宿には明子さんだけの参加で、裕子さんとタップリお話をします。

裕子さんからつめて聞いた方がいいとのアドバイスにより、翌年2月仏青、3月東京と宿泊法座に参加します。悟朗先生の『親指のふし』を読んで、もともと仏教に熱心だった姉の智子さんにプレゼントし、姉妹で聞法の道を進んでいくことになります。

そして、その年の4月の永代経2泊3日に参加します。初日の信先生の座談では積極的に自分の心境を述べますが「都合のいい解釈」と切り捨てられます。2日目の夜の悟朗先生のご法話で、南無阿弥陀仏を作り上げた阿弥陀様のご苦労を聞かされ、先生が阿弥陀仏に見え、涙が止まりません。

その後の信先生の座談で「もう一人の冷静な自分が邪魔をする、私は役者です」と訴えると「そんな明ちゃんがお目当てなんや。十功の昔から待ってくれてはるんや!」と言われ、苦しくて泣き崩れます。「お念仏の中に飛び込んでいき!」との仰せに、念仏を称えると、風呂の釜からボコボコを湧き上がるような念仏が溢れてきました。

懇親会では、悟朗先生とも握手をしてもらい舞い上がります。裕子さんからは簡単に頂いた人は信後の聴聞が大事と聞かされ、それから20年近く華光会の法座にはほぼ参加しています。

2年前の夏には福岡の家庭法座に姉妹で参加し、その秋にはお兄さんが急死されました。昨年は一周忌とお父さんの三周忌を勤められ、12月には明子さんがかつて下宿していた広島駅前のお家での法座を開かれました。、私と二三代さんの二人で法話をさせて頂いたのも何かのご縁でしょう。

家は取り壊すとのことで、何でも持って帰っていいと言われ、「唯仏是真」の額を頂きました。自宅の仏間に飾っています。明子さんの現在の心境は「ただただ聞く耳をいただいたことが大きな幸せです」とのことです。

2020年8月

第61回 中道逹哉さん

大阪在住の中道さんです。勤務先の運送会社の関係で広島から大阪に移って5年になります。10年以上前に、会社で使用しているスナック「ながと」に個人的に通っていました。そこのママさんである正木陽子さんを毎週、全国各地の増井悟朗先生、増井信先生の法座に運転手として連れていくようになります。

陽子さんは、18才から仏法を聴聞していましたが、なかなか信心が得られず、「わからん。わからん」と求めていました。中道さんは仏法には興味はありませんでしたが、陽子さんに頼まれれば断り切れず、九州、大阪、日高、京都、名古屋、北陸、高山、東京と毎週のように日本全国を車で送迎していました。

ご本人によれば、離婚したばかりで現実からの逃避でした。ミイラ取りがミイラになるように、当初は距離を置いていた中道さんも、自分のこととして仏法を聞くようになります。中道さん自身の「体験記」によると、その週の終わりに山崎宅での家庭法座に行く予定を確認した時に、勤務先の駐車場の車中で、阿弥陀様が「今」働いてくださっていることに気付き、「恥ずかしい」「申し訳ない」と念仏と涙で10~15分くらい降りることができなかったそうです。

そういえば、うちの家庭法座での中道さんのお味わいが尊く「中道さんは信を頂いているのじゃないの?」と夫婦で話したことを覚えています。また、大経の「不請の友」により、懇願しなくても親友となる阿弥陀様のことを知らされ「求めないものをも救う」ことに思い至ります。自分ではストーカー聞法をしていたつもりでしたが、付きまとってくださっていたのは、阿弥陀様の方でした。

中道さんは、2018年の暮れに晴れて、陽子さんと入籍され、今は華光会の運営副委員長としてご活躍です。

2020年7月