2021年 の投稿一覧

第80回 薄千恵さん 下

何をやっても苦しく、心がスッキリしません。一人でシクシク泣いている自分の姿が見えます。子ども、ご主人もいるのに苦しい。そんななか、39才の時に、生後数ヶ月のお子さんを連れて、華光会館の「壮年の集い」に参加します。

座談で山下和夫さんから「何が引っかかっているんだろうね。仏法は簡単なのに」と言われます。その言葉が帰ってからも、頭から離れません。伊藤康善先生の『仏敵』を読んでいるときに、アレッと思います。自分が思い描いていたものと違う。全ては自分が邪魔をしていたんだ! 涙が止まらなくなります。夜中でしたが、泣き叫んで「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と念仏を称えます。ご主人が驚いて背中をさすってくれました。

薄さんの体験記には「ああ、この私自身が仏敵だった。阿弥陀様に背を向け、自分が欲しい救いを、自分の中に見出そうと己の腹底を探し続けていた」とあります。

スッキリして不安がなくなります。自分のことがよくわかります。お聖教を読んでもサラーッと入ってきます。仏法を聞くということはこういうことだったのか。今度は、聞きたくて仕方がなくなってきました。

「私はいったい何のために生まれてきたのか」の答えがようやく分かりました。それは今生で仏法に出会うためでした。「地獄一定はこの私。まことのない私。その真実に出会えたのも、ひとえに阿弥陀様一人のお働きのお陰でした」

千恵さんは、以前に古代蓮の栽培を習っていました。1年かけて土から作ります。土を作るときには、いろんな物を入れて発酵させます。ボウフラが沸き、ものスゴい匂いがします。近寄れないくらい臭くなります。そこに美しい古代蓮が咲きます。横川法語の「濁りに染まぬ蓮のごとくにて、決定往生疑あるべからず」の法語が身に沁みます。

第79回 薄千恵さん 上

東京都立川市在住の薄さんです。前回の根岸さんの妹さんになります。小学3年時に、お母さんが乳ガンを宣告され、お父さんは肝硬変を患います。お父さんは曹洞宗系の駒澤大学時代に座禅を組みに、奈良のお寺に行っていたそうです。東京のビハーラ(末期患者に対する仏教ホスポス)で西光義敞先生に出会い、華光会館に行くようになります。

お母さんは10年間の闘病後お亡くなりになります。当時、20才で女子美大の学生でした。お母さんは「お父さんが言っていることは本当だから」と遺言します。そこでお父さんに相談すると、是非聞いて欲しいと、華光会東京支部の永田税理士の法座に参加します。泣いたり、笑ったり、暖かい会場で、自分のことを言ってもいい場所と感じます。

東京法座に時々参加するようになりました。同世代のカワテ・ローラさんとお友達になり、一緒に華光会館などについて回ります。4年ほど集中的にお参りしました。しかし、話の内容は全然分かりません。だんだんと行くのが辛くなってきます。行けば感想を求められるし、追い詰められるような感じになってきました。

23才で結婚し、就職をして、法座から遠ざかっていきました。27才のときに、お父さんが亡くなります。自分では父と同じ体験と思っていましたが、違うということに気付きます。喜びを聞いたことと思い込んでいました。実際は違っていました。

ローラさんが日本に来る度に、会いましょうとなりますが、会える場所が華光会館のみで、法座に誘われます。その頃は、JRの子会社で駅舎の設計などをする会社で、仕事に夢中になっていました。会社の先輩が自死したこともあって、カウンセリングの方に没頭していました。カウンセリングで解決できるのではと思います。感情は込み上げてきますが、ストーンと腹に落ちません。出産し、ご主人、お子さんと恵まれるけれども、何をやっても苦しくなってきます。

第78回 根岸良輔さん 下

平成11年の永代経の3日間で、松岡宗純先生から何度も、阿弥陀様のことを聞かせて頂きます。それでも「体験が欲しい」という根岸さんに、「まだ何かできるとおもっているの?、納得するような根岸君でないことを阿弥陀様はご存知でその上で、そのままでいいと言ってくれてはる」と松岡先生です。こうなったら「うん」というしかないかと「うん」と答えると、「”うん”などと言える根岸君ではないだろう。阿弥陀様が”うん”と返事してくれている」と教えてくれます。

説得されてしまったと感じて、帰りの車中で振り返ってみると、不思議なことにわかるもわからないもないな。全部自分の仕事ではなかったなと思います。なぜ今まで体験が欲しいとか、納得したいとか言っていたのだろうと、うれし涙の中で「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と称えました。

2週間ほどでその喜びも薄れ不安も出てきますが、”自分には全く力がない”と満足します。その後、教員採用試験に受かり、栃木県で採用され進学校の教員となって忙しくなり、華光会館から足が遠のきます。平成15年にお父さんが肝臓ガンでお亡くなりになります。当時の華光会東京支部長の古家さんの家庭法座に月1回お参りはしていました。

10年ほど経った平成23年に、工業高校に転任します。時間に余裕ができて再び華光会館に行くようになります。そこからは私も根岸さんを傍で見てきました。今回のインタビューで私よりも大先輩ということを知りました。

現在は進学校の佐野高校に転任となり、再び忙しくなりましたが、東京支部長としてご活躍です。コロナ禍で電話でのインタビューとなりました。

妹さんの薄千恵さんは、ご両親の病気により、同じく仏法を聴くようになります。次回はその千恵さんに登場して頂きます。

第77回 根岸良輔さん 上

根岸さんは、東北大学大学院を修了後、栃木県で県立高校の数学の先生をしています。2021年は年男で8月で48才になります。中学3年の時にお母さんが乳ガンを患い、10年間の闘病後、お亡くなりになります。

その間、お父さんは、肝硬変を患い、家族のために頑張ってきたのに、どうして自分だけがと追い詰められ、何度も自死しようとしたとのことです。現実を受け入れることから始め、近所の人に笑顔で挨拶できるようになり、仏法とは関係なしに、ガラッと変わります。

お父さんは、他の人もきっと同じ体験をした人がいるはずと禅宗の寺などを回ります。西光義敞先生の真宗カウンセリングに辿り着きます。そのご縁で京都の華光会館に行くようになりました。

根岸さんは病床のお母さんとどう過ごせばいいかと悩み、お父さんの姿を見て、華光会に救われる道があるのではないかと、平成9年、仙台から京都へ永代経の法要にお参りします。前日から宿泊し、増井信先生、孤杉英章先生からをお話しをして頂きます。

永代経に参加をしていた人たちが「人間に生まれてきた目的は仏法を聞くことだ」と言っていたことが強く印象に残ります。しかし、聞き開くことはできずに新幹線で戻ってきます。その年にお母さんはお亡くなりになります。亡くなる直前に「お父さんの言っていることは正しいよ」と道を示してくれました。

大学院修士課程中で、時間はあったので京都に通いだします。地獄行きだということは分かりますが、お父さんの体験が欲しくて求めている状態でした。

平成11年の松岡先生との座談で、3日間「納得するような根岸君ではないことを阿弥陀様は知っていて、そのままでいいといってくれるんだよ」と繰り返しお話しを頂きます。心が許さなくても「うん」と言うしかないかなあという気持ちになり、「うん」と答えてみます。

第76回 杉浦恵子さん 下

息子さんから親が獲信すれば聴くと言われ、まずは自分からと思います。華光会にご縁があってから1年程経過した頃から、周りから獲信者扱いされるようになっていました。恵子さん自身はいい加減なことを言わないでと反発します。

しかし、お聖教を読むとわかります。あれ?信を頂いた?と思えてきます。S会では「絶対に変わらない、絶対の幸福の身になれる」と聞かされ続けてきたので、極楽往生できる確信がハッキリあり、24時間有り難い気持ちが続くと思い込んでいました。

長男は美大を卒業しますが、荒れていました。東京に下宿しているので、愛知から電話して、自分は信後ではないけれどもと思いながらも念仏を勧めます。息子は不安でグチャグチャになっています。「確かなものは南無阿弥陀仏だけよ」「イヤだ。世界中の人が救われてもオレは救われん」。

心配で東京に行きます。下宿で待っていると夜遅く帰ってきました。息子さんは立ったまま阿弥陀仏への怒りをぶつけます。「家族を無茶苦茶にしたのは阿弥陀仏だ!家族の誰も救われていない」と憎しみをぶつけます。天井に向かって「阿弥陀仏出てこい!」と叫んでいます。「念仏称えなさい」「イヤだ」

息子が「オレをこんなに苦しませて!」と言うので、「阿弥陀仏も一緒に苦しんでおられるやん」と言い返すと、ヘナヘナと椅子に座り込んでしまいます。

なんだ、そういうことだったのかと今まで聞いてきたことが1本の線でつながりました。心が一面焼け野原になり想いが燃やされ、そこに南無阿弥陀仏の旗が残っています。「この子は私と一緒じゃ!」。それから夜中の12時から朝の5時まで二人で穏やかに話しました。話すことが全部一緒です。

世界中が光に満ちています。一味とはこういうことか! 息子が回心したので、自分が回心していたことがわかりました。朝に「帰るね」と愛知に戻ります。帰って東京に電話してみると「念仏がとまらない!」とのことです。目にモノを見せつけられます。

2021年10月号

第75回 杉浦恵子さん 上

愛知県碧南市の杉浦恵子さんです。二三代さんと同い年です。短大時代に、学食でS会から勧誘を受けていたのを聴いて、自分から話しかけ、聴聞をするようになりました。

卒業後、S会で知りあった計晃さんと5年付き合った後に25才で結婚します。30年ほど、S会で聴聞しても聞き開けません。息子と娘の二人の子どもに恵まれ、家族で聴聞を続けていました。最後の方はイヤでイヤでしょうがなく、渋々行っているような状態でした。

その間、長男は小さい頃は明るくて素直な子でしたが、中学3年の時に不登校気味となります。なんとか高校に入っても1年で中退します。絵が好きだったので武蔵野美術大学を志望します。高卒認定試験には合格しても18才までは入学できないので、河合塾の美大の受験コースで絵の勉強をします。

現役の受験で武蔵野美大と東京芸術大学1次試験に受かり、一浪して再度芸大を目指します。翌年、芸大2次には受からず、武蔵野美大に入学します。武蔵野美大は4年間通います。友人にS会を勧めると、反対にネットの情報を見せられヤバイんじゃないかと言われます。エッと驚き、本人がネットで検索すると批判サイトがたくさん上がっています。

その中で、退会者のところに夜中に押しかけ、本尊を返す返さないと揉めている動画を見て、一気に不信が芽生え、恵子さん自身も2チャンネルなどを見ます。嶋田久義さんの「私の白道」を見つけます。元S会講師で、華光会で信心を獲たことを知り、家族で退会を決意します。

ところが長男がもの凄く反発します。小さい頃から、S会の聴聞に行き、クリスマスもなし、初詣もなし、ディズニーランドに行きたいと言えば聴聞に行きなさいと言われ、散々我慢してきたのに、S会が間違っていたから、今度は華光会に行きなさいはないだろうと、怒りだします。親が獲信すれば聴くと言われ、まずは自分が獲信しなければと思います。

2021年9月号

第74回 大坪逹也さん 下

平成10年1月の報恩講で獲信し、1週間念仏が出続けましたが、運転している最中にピタッと念仏が止まってしまいます。自分で信心をつくってないか、大きくしていないかと不安になります。このままでは地獄行きやと、兄の舟本賢也さんに相談にします。

賢也さんから「こちらに信心はない。信心は阿弥陀様からいただいたもんや」との応えから、「唯除五逆誹謗正法とは自分のことやった!オレは唯除だ!」と徹底します。ここのところは「華光誌」の体験談にも書いていないところで、最近、増井信先生とお話するなかで、とても重要なところであることに気付かされたそうです。自分が法を聞く上で、また人に法をお勧めする上でとても重要なことだと改めて気付きます。

座談のときの体験のところにとどまらず、自分のモノガラからスタートラインに立ちます。唯除と名指しされたことにより信心が徹底しました。逹也さんは「唯除」は自分の法名と思っています。その後、大坪家に婿入りします。母親の民子さんは婿入りに当たって一つの条件「華光会の法座へ快く参加させること」を付けます。

3人の子に恵まれます。『正信偈』の「唯説弥陀本願海」から、長女を唯ちゃん、次女を海(うみ)ちゃん、『教行信証』の「心を弘誓の仏地に樹て、念いを難思の法海に流す」から、長男を樹(いつき)ちゃんと名付けました。全て悟朗先生の法話からです。名前の由来を紐解いて仏法を聞いてくれればの親心です。

それと、愛犬のわかばちゃんがいます。フェイスブックでわかばちゃんの動画が、毎日アップされています。運転席に座るわかばちゃんには笑わせてもらいました。賢也さんのところのサラちゃんとともに、朝の出勤時に二三代さんはいつも隣で笑って、私に報告します。

2021年8月号

第73回 大坪逹也さん 中

華光の子ども大会に先生役で参加し、恒例の地獄のスライドが、たまたまその年は餓鬼のスライドでした。そこに食法餓鬼(じきほうがき)が出てきます。法を食べる餓鬼です。これはオレの姿だ!と感じます。このあたりが大坪さんの心の変わり目だったそうです。今でも自分は食法餓鬼と味わっています。

聴聞を重ね、お話は良く分かります。兄の舟本賢也さんからも「よう聞いとるな~」と感心されます。しかし、心がスッキリしません。この頃、仏青で西光義秀先生の厳しいご示談を頂き、帰りの新幹線の中で賢也さんに心境を吐露し悩みを打ち明けます。

聴聞してきて3年ほど経過しても、スッキリとせず、カラが割れません。34才、報恩講の懇親会で、有難い心境を話しますが、伊藤友一さんからは「ふーん」という反応しか返ってこず、その夜は眠れません。次の日、黒河達児さん、伊藤さんの分級に入ります。伊藤さんから「逹ちゃんどう?」と聴かれ、昨晩と同様の心境を答えますが「全然響かんのや」と言われ、追い詰められます。黒河さんからは「切羽詰まっているのは阿弥陀様の方やで」そして伊藤さんから「逹ちゃん、楽になったら」と勧められました。

それを聞いて、今まで何してたんやろうか、バカやったと感じます。バカになったことが嬉しく、念仏が止まらなくなりました。1週間ほどズーッと念仏が出続けました。華光会館のエレベーターから出てこられた悟朗先生に「バカでした。何にもありませんでした!」と涙と鼻水でご報告したところ、「そうか」と一言。しかし、先生は喜んでいらっしゃったそうです。

黒河さんは「達」の字が同じということで、可愛がられ、いつも黒河さんの「京都親聞」を大坪さんに送っていました。しかし、その念仏が1週間後、車を運転しているときに、ピタッと止まってしまいます。

2021年7月号

第72回 大坪逹也さん 上

岐阜県高山市の大坪さんです。昭和38年生まれです。既にこの「妙好人」に登場した舟本民子さんが母親、舟本賢也さんが兄となります。東勝廣さんは叔父さんになり、法が熱い御一家です。
逹也さんは当初は仏法に興味がありませんでした。20代は人生が楽しく、登山・カヌーに夢中で遊びに行きたいばかりでした。30才の頃、舟本一家が華光会に出会います。

舟本家の家庭法座で増井悟朗先生を招かれます。そこに栗田さん、伊藤友一さんも名古屋から参加していました。福井の尾崎牧男さんの奥様、華澄さんのご示談となり、真宗は厳しい、という印象を受けます。

それでも興味は湧かず、舟本民子さん達が京都にお参りするときに運転手として行っていました。当時はいいバイトになりました。最近は運転手手当はなくなって寂しい限りだそうです。

ご法座を聴いてもよくわかりませんが、悟朗先生を見て「本当のことを言っとるな」と直感し、この人は本物だなと思います。しかし、座談となってもしゃべれません。今の姿からは想像もつきませんが・・・

3年くらいは、その状態が続きます。高山での家庭法座で、瀬上廣子さんのご示談の場面で、大坪さんが発言しようとすると、悟朗先生から「あんたはしゃべらんでいい!」とスパッと切られました。オレは聞けんな、見捨てられたと感じると同時に、阿弥陀様に見捨てられたと思います。

華光会は辞めようと思っていた夏に、ボーイスカウトの指導者をしていたこともあって山科別院で開催された華光子ども大会に、悟朗先生から意を受けた増井信先生よりお誘いがあります。遅れて夜に到着したとき、高校生の金山玄樹さん兄弟が山門まで迎えに来てくれていました。中学生の厚東証子ちゃん、教子ちゃん姉妹も参加していました。子どもでも熱心に仏法を求めているのにと、情けなくなってしまいます。

2021年6月号

第71回 岡田美智子さん 下

北陸支部の立上げ法座に、瀧山さん運転の増井悟朗先生の車に同乗させてもらいます。座談で「仏さんの苦労もわかるけど、イヤなものがボロボロでてきて、讃嘆できない」と言うと、舟本賢也さんから「そら、岡田さん全然聞いてへんな」と言われてしまいす。

悟朗先生から黒い心、白い心、暗い心の三つの違いがわかるか?と尋ねられますが、日頃よく聞いていることなのに説明できません。「ちょっと仏さんに水くさいな。謝んなさい」と言われます。南無阿弥陀仏はちょっとは出るけど、懺悔が足りんと言われます。「じゃじゃ盛りでいいですか?」「じゃじゃ盛りのままでいいんや」と言われ、思いっ切り念仏します。悟朗先生は「あんたも一味やな」と仰いました。

京都に戻って、ご主人に話をするとえらく怒られました。感情に動かされ、聞いたつもりになっていると。華光誌を読んでも誌上法話は難しくてわからん。体験記を読んでは自分に合うところばかりを探していました。不思議な体験を求めていました。そんな時、黒河達児さんから「不思議な体験がなかったから良かったな。幸せしたで」と体験を握らなくて良かったと言われました。黒河さんが自宅に2度来られ、お話を頂きます。

その黒河さんも、1年後の聞法旅行の最終日に危篤の知らせがあり、夜、病室で意識の無い黒河さんが高熱でうなされ、増井行子夫人から「恩徳讃」を歌ってあげて!と頼まれ、歌うことしか出来ませんが、歌う時だけピタッと静かになられていました。翌日の明け方に往生されました。

半年ごとに入院していたご主人も、3年前にお亡くなりになり、華光会館には行事ごとに自転車で、一人でお参りしています。華光会の本部法座では毎回、お会いします。2021年の報恩講では、私の分級に固定メンバーで参加されていましたので、改めてインタビューさせて頂きました。

2020年5月