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第63回 小山ひとみさん

三重県在住の小山ひとみさんです。昨年「壮年」を卒業され、2020年は66才です。同年2月22日にお亡くなりになった伊藤友一さんとの深いご因縁です。友一さんと小・中学校同じで、34才の時に同窓会がありました。企画したのが小山さんの親しいお友達だったので、参加してみました。当時、仏法に燃えていた伊藤さんから、目をランランと輝かせてお勧めを受けます。

名古屋での仏青に参加し、2回目、華光会館をご主人に見定めてもらおうと一緒に参加します。ご主人が増井悟朗先生を気に入り、家庭では「悟朗ちゃん」と呼んでいたそうです。ご主人の「行っていいよ」の言葉により法座に参加するようになります。

しかし、なかなか聞き開けません。増井信先生から東の横綱と言われます。西の横綱は広島の吉貞さんだったそうです。13年経った2001年の永代経で早田節代さんから日高法座に誘われます。瀧山さん運転の悟朗先生の車に同乗させてもらい、お参りします。

節代さんの自宅で初日の法座があり、そこに泊めてもらいます。夜遅くまで、瀧山さんとご法のことで話し込みます。つい最近判ったことですが、悟朗先生はご示談の出番があると、寝ずに待っておられたそうです。それだけ切羽詰まった顔をしていました。翌日、隅田さん(田村直子さん父)にモーニングを誘われ、歩いているときに「不可称不可説不可思議」の声がズーッと聞こえます。小山さんはその言葉を知らなかったそうです。その日の法座後の座談で、瀧山さんから押し出され、念仏が止まらなくなりました。

小山さんは子育てもあって法座に出れなかったときも、華光誌の誌上法話のテープ起こしを20年近くしており、そのお育てが大きかったそうです。それと伊藤さんとのご縁です。

聞かせてもらって20年後の今では、名古屋での法座は皆勤賞、華光会館法座もほぼ参加され、現在は運営副委員長としてご活躍中です。最近は信先生のご法話が厳しく、もっと聞かないといけない、座談ではもっと自分自身を出していかなければとの思いを新たにしているとのことです。

2020年9月

第62回 岩城明子さん

横浜市在住の岩城明子さんです。出身は安芸門徒の広島です。小さい頃から、祖父母宅で月に1度、家庭法座が開かれていました。中高一貫の広島女学院に入ります。実家を出て、祖父母のところに下宿して家庭法座の手伝いをしていました。

学校では卓球部に入り、部長で同級生の久保裕子さんと出会います。社会人となり結婚もした頃、裕子さんから華光会の仏青の案内や、華光誌が送られてくるようになりました。裕子さんの呼びかけにより、1998年9月に卓球部合宿として華光会館に集まります。2000年9月の2回目の合宿には明子さんだけの参加で、裕子さんとタップリお話をします。

裕子さんからつめて聞いた方がいいとのアドバイスにより、翌年2月仏青、3月東京と宿泊法座に参加します。悟朗先生の『親指のふし』を読んで、もともと仏教に熱心だった姉の智子さんにプレゼントし、姉妹で聞法の道を進んでいくことになります。

そして、その年の4月の永代経2泊3日に参加します。初日の信先生の座談では積極的に自分の心境を述べますが「都合のいい解釈」と切り捨てられます。2日目の夜の悟朗先生のご法話で、南無阿弥陀仏を作り上げた阿弥陀様のご苦労を聞かされ、先生が阿弥陀仏に見え、涙が止まりません。

その後の信先生の座談で「もう一人の冷静な自分が邪魔をする、私は役者です」と訴えると「そんな明ちゃんがお目当てなんや。十功の昔から待ってくれてはるんや!」と言われ、苦しくて泣き崩れます。「お念仏の中に飛び込んでいき!」との仰せに、念仏を称えると、風呂の釜からボコボコを湧き上がるような念仏が溢れてきました。

懇親会では、悟朗先生とも握手をしてもらい舞い上がります。裕子さんからは簡単に頂いた人は信後の聴聞が大事と聞かされ、それから20年近く華光会の法座にはほぼ参加しています。

2年前の夏には福岡の家庭法座に姉妹で参加し、その秋にはお兄さんが急死されました。昨年は一周忌とお父さんの三周忌を勤められ、12月には明子さんがかつて下宿していた広島駅前のお家での法座を開かれました。、私と二三代さんの二人で法話をさせて頂いたのも何かのご縁でしょう。

家は取り壊すとのことで、何でも持って帰っていいと言われ、「唯仏是真」の額を頂きました。自宅の仏間に飾っています。明子さんの現在の心境は「ただただ聞く耳をいただいたことが大きな幸せです」とのことです。

2020年8月

第61回 中道逹哉さん

大阪在住の中道さんです。勤務先の運送会社の関係で広島から大阪に移って5年になります。10年以上前に、会社で使用しているスナック「ながと」に個人的に通っていました。そこのママさんである正木陽子さんを毎週、全国各地の増井悟朗先生、増井信先生の法座に運転手として連れていくようになります。

陽子さんは、18才から仏法を聴聞していましたが、なかなか信心が得られず、「わからん。わからん」と求めていました。中道さんは仏法には興味はありませんでしたが、陽子さんに頼まれれば断り切れず、九州、大阪、日高、京都、名古屋、北陸、高山、東京と毎週のように日本全国を車で送迎していました。

ご本人によれば、離婚したばかりで現実からの逃避でした。ミイラ取りがミイラになるように、当初は距離を置いていた中道さんも、自分のこととして仏法を聞くようになります。中道さん自身の「体験記」によると、その週の終わりに山崎宅での家庭法座に行く予定を確認した時に、勤務先の駐車場の車中で、阿弥陀様が「今」働いてくださっていることに気付き、「恥ずかしい」「申し訳ない」と念仏と涙で10~15分くらい降りることができなかったそうです。

そういえば、うちの家庭法座での中道さんのお味わいが尊く「中道さんは信を頂いているのじゃないの?」と夫婦で話したことを覚えています。また、大経の「不請の友」により、懇願しなくても親友となる阿弥陀様のことを知らされ「求めないものをも救う」ことに思い至ります。自分ではストーカー聞法をしていたつもりでしたが、付きまとってくださっていたのは、阿弥陀様の方でした。

中道さんは、2018年の暮れに晴れて、陽子さんと入籍され、今は華光会の運営副委員長としてご活躍です。

2020年7月

第60回 浅野聞子さん

この妙好人列伝も5周年、60回となりました。第1回は増井悟朗先生に登場いただき、その翌月にお浄土に還帰されました。ギリギリ「現代に生きる」に間に合いました。記念の第60回は悟朗先生の長女の聞子さんです。4才の時に獲信したという伝説の方です。私もその時のテープを聞かせてもらったことがあります。周りの「よかったね」という声のなかで、小さな子どもが念仏を叫んでいました。

真宗史上、最も若い?幼い獲信ではないでしょうか。聞子さんによれば、ものごころがつく前から、両親と一緒に寝物語にも「あんたはおとうちゃん、おかあちゃんが行くところ(お浄土)には行けんから、早く仏様の子どもにならしてもらい」と言われて育てられました。

当時は、大人も子どもも関係なくご示談が行われ、子どもが子どもを取り囲んでお勧めしていたそうです。4才時の報恩講のご示談において、まだ小学生の丸尾佐知子さん、中学生の辻悦さん(嶌悦さん)、増井武士さん(聞子さん従兄弟)から、ご示談を受けていました。途中、イヤになって下で寝て休んでいるお父ちゃんのところに行こうと階段を降りたときに、階段の上から「寝ている間に死ぬかもしれへんで!」と言われ、ハッとします。きびすを返して道場に戻り、そこで聞かせてもらいました。今となっては何も覚えていないそうです。気がついたら母、叔母さんが喜んでいて、大きな座布団の上に乗せてもらって、念仏していました。

龍谷大学真宗学科の学部、修士課程で学ばれ、学部の卒論は「真宗における求道論」です。大学院での指導教授は信楽峻麿先生した。

聞子さんとは7年前のシルクロードツアーで一緒でした。鳩摩羅什さんの銅像前で「弥陀成仏のこのかたは~」と歌っていました。今年のインドツアーでも霊鷲山の山頂で歌っています。現在は名古屋の「浅野屋洋食店」の女将さんとして、ご主人の太佳雄さんとお店を切り盛りしています。仏説とは真逆の世間のモノサシに驚きながら、いよいよ仏説のまことを知らせてもらう毎日です。

2020年6月

第59回 藤井幸子さん

京都市伏見区の藤井幸子さんです。ご自宅が華光会館の近くで、近所の子ども達が会館の書道教室に通っているのを見て、長男の英志さんを小学1年生から通わせます。翌年には華光子ども大会にも参加し、「楽しかった!」と話してくれました。

小さなタバコ屋経営で働きづめのご主人は、英志さんのお話を聞いて「一緒にお参りしよう」と幸子さんを誘います。幸子さん自身は興味を持てずに、自分一人でもお参りしようかという矢先に、ご主人が突然の病気で入院し、そのまま2ヶ月後に帰らぬ人となってしまいました。

生前のご本人の希望に添う形で増井信先生に葬儀をして頂きます。幸子さんは永代経に誘ってもらい、お礼のつもりでお参りすることになります。お参りするあたって英志さんから「途中でやめたらあかんで」と言われます。「途中で」の意味が今ひとつ理解できませんでしたが、行ってみてビックリ! 皆さん、念仏を大きな声で称えていて「こんな騒がしいところはかなわんな~」と思います。

それが17年前で、ご法座などの行事に参加し、求道が始まりました。そこではじめて「途中でやめたらあかん」の意味がわかります。お話を聞いて有難くなって喜んでいると「それは縁他力や」と英志さんに否定されます。なんだか判らなくなってきました。

会館での華光誌輪読法座が始まり、初回から参加します。大勢の座談ではなかなか本音を言えなかったところが、水谷法子さんが自性をそのままさらけ出すのを聞いて、肩の力が抜けてものが言えるようになります。

輪読の後にはファミレスで1時間以上、水谷さんたちと話し込んでいました。あるときの輪読法座で自分の口から次々と本心が出てきて、腹底が空っぽになります。信先生がお話してくださり「ハイ」と返事をしてお仏壇の前に行き、念仏をさせてもらいました。胸がホコホコと温かく、歓びを隠そうにも隠しきれません。いつもは「今日はどうだった?」と聞く英志さんがその日に限って何も聞きません。翌朝、心境を語ると、いつもと全然様子が違っていたそうです。

私の分級座談にもよく顔を出され、お味わいを述べられます。分級常連の水谷さんは2020年2月22日に浄土に参られました。南無阿弥陀仏。

2020年5月

第58回 三輪利加さん

三輪さんは在家から本願寺派のお寺に嫁入りし、坊守さんとなっています。村上義円さんが住職の西光寺報恩講にお参りした際、増井悟朗先生のご法話を聞きます。今まで聞いたことのなかった後生の一大事や、信心という言葉にビックリします。その時から求めだします。30代後半は求め歩いていました。当時、華光会の子ども大会に参加した時の三輪さんの参加記です。

『私は、自性を見せられても、なおその私に執着してると思いました。アミダ様は、そんなミワリカが、自分で作った自分地獄へ落ちていくしかない罪業をはっきりお見通し。アミダ様からは、計り知れないおそろしいミワリカの罪業が、はっきり見えてはるんだと思いました。お前を救う手だては、もうここに用意してあるよ。何も心配は要らない…なんまんだぶつ…なんまんだぶつ…「さあ、おいで。さあ、おいで。落ちておいで」と、叫びづめでした』

仏青の懇親会では、増井悟朗先生が横におられ、ご示談を受けます。私のものと思っていたものが、ドンドンとられる感覚でした。何もない。一人になっていく。周りにいた人によれば、三輪さんは怖いと言って震えていたそうです。そうすると、口から何かが出ていって、倒れ込んでいました。倒れた時に先生に抱きついて、しがみついていました。先生から「念仏しましょう。お礼をさせてもらいましょう」と言われ、「南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏」と称えます。次の日から、私は変わらへんかったと知らされます。聞く耳を頂きました。最近の三輪さんの心境です。

「そうして、私の出遇いに気づく日々が始まりました。私のあみださまはじっとしてはらへんのです(笑)。恩師上田豊香師からお聞かせ(お育て)いただいた言葉や味や念仏が、私の身だけにとどまらず響きあうて動きだしてやまないのです。自坊での法要法座・座談会にはご門徒さんだけでなく法友、有縁の方々もお参りお聴聞くださり聞法・お育てをいただいています」

お母さんの浅里さんとは、私もよく華光会館でお会いします。また、私が求めているときに、西光寺での悟朗先生法座の後、三輪さんに姫路駅まで送ってもらい、その節は大変お世話になりました。

2020年4月

第56回 宿利清麿さん

2019年12月10日に往生の素懐を遂げられた豊前市の宿利さんです。浄土真宗本願寺派のお寺に生まれ、寺を継ぐか否か随分と悩まれたそうです。龍谷大学に進学はしましたが、歴史学科の東洋史を専攻し、大分県玖珠町で高校の先生となります。定年まで38年間の教員生活でした。お寺は弟さんが継いでいます。

退職して4年後頃から、大分県日田市のお寺で聴聞するようになります。2013年頃より華光会の大分法座にお参りするようになります。初めてお会いした時、いかにも学校の先生のような真面目な感じでした。年令的には80才に近くなり、後生も近くなって焦りますが、なかなか聞き開けずに苦しんでしました。

2015年9月の大分法座で、宿利さんを中心に座談が進みますが、もともと喉が悪く、蚊の鳴くような声で答えるだけで進みません。その時の増井信先生のお勧めがスゴいです。円座になっていましたが、近くにすわっていた鍋島証子ちゃんを宿利さんの前に座らせます。宿利さんに「阿弥陀様は宿利さんになって言っておられますか? ご自身が阿弥陀様になって証子てちゃんに言ってみてください」と促されます。

宿利さんは証子ちゃんに「聞いておくれ。私に助けさせておくれ」等とご自身の言葉で伝えます。そこで攻守交代して、証子ちゃんが阿弥陀様となり、宿利さんはご自身となって阿弥陀様の声を聞きます。そこでの証子菩薩の声が出色でした。突然「ありがとう!」と宿利さんに声をかけます。

その瞬間、宿利さんの首がガクッと折れ、椅子に座った状態からそのまま頭がフロアーの床に擦り付きます。念仏を称えたまま、首が上がりません。その日は皆で祝杯を上げました。

次の日の法座では、いままで蚊の鳴くような声だったのが、次から次と言葉が出てきます。さすがに長年、聴聞してきただけのことはあります。お亡くなりなって、間に合って本人も喜んでおりましたと、奥様が仰っていました。

2020年2月

第53回 松林由美子さん

ご主人が転勤族のため、現在は埼玉県三郷市在住の松林さんです。ご主人の祖父は愛知県の元徳寺(本願寺派)のご住職でした。脳梗塞で倒れ、お寺は休止状態となっていました。

由美子さんが嫁入りして1年後に祖父がお亡くなりになりました。お寺の境内に自宅を建てていた関係で、由美子さんが得度をして、お寺を残すようにします。そのため、由美子さん自身が本願寺派の中央仏教学院の通信を受け始めました。浄土真宗も親鸞聖人も知らないなかでの受講です。1年目のスクーリングで同じ参加者の久保裕子さんから「華光誌」を手渡されます。

翌年、2年目のスクーリングでも裕子さんに会い、二人でお茶を飲んだときに、自分の話しを聞いてもらい、裕子さんからは華光会のことを聞きます。それがご縁で、増井悟朗先生のお話を聞くようになります。これは本当のことを言っていると感じます。名古屋のご同行と、裕子さん含め3人でお茶をした時には、仏教の話はなくてとても楽しく、名古屋の家庭法座に家族で参加しました。

更に、飛騨高山の法座に参加し、東勝廣さん、舟本賢也さんからお勧めされます。これは聞いていかないといかんと決めます。その年の華光大会に、息子さんと参加しました。この法座だけは正座してちゃんと聞こうと思っても、何にもできない、「聞かれへん、聞かれへん」となってしまいます。ご同行の黒河達児さんから「阿弥陀様は何も条件をつけておられませんよ」と言われます。

悟朗先生の分級に入り「阿弥陀様に飛び込むんや」とお勧めされていました。他の人に対してのお勧めでしたが、自分に言われている!と思った瞬間、座談の真ん中に飛び込みました。すると、ドンドン頭から真っ逆さまに堕ちて行く。するとその瞬間、阿弥陀様が現れ、ギュッと抱きしめて離しません。泣きながら念仏が止まりません。「そんなんや、自力はいらんねんやった、そうやった!」と嬉しくて嬉しくて飛び上がりました。

これが、今から20年ほど前のことです。私が求めてだした12年前は、由美子さんは厳しいご同行で、当時は、できるだけ分級が一緒にならないように避けていました。今では、5年程前にうちの家庭法座に参加して頂き、今回は、華光会館での懇親会後に、宿泊場所の聞法会館でインタビューさせてもらいました。

2019年11月

第50回 丸尾佐知子さん

2019年に71才になる京都市在住の丸尾佐知子さんです。9才の時から華光会館の日曜学校に毎週通っていました。当時は30名以上の参加があったそうです。日曜学校は勤行・法話・座談・ゲームの行事があり、午前中に行われていました。小学校6年の終わりに増井悟朗先生から華光会館(旧)に住むことを勧められ家族5人で会館に居住するようになります。

中学1年のときから、増井行子夫人の手伝いで廊下の掃き掃除・拭き掃除をします。当時は行子さんもまだ20代です。ですから、いまでも丸尾さんは行子さんのことを「おばちゃん」と呼びます。悟朗先生の長女の聞子さんとは8才違いで一緒に聞法します。聞子さんが4才の時に獲信したときのテープには、当時12才の丸尾さんのお勧めの声も入っています。

当時の丸尾さんは行子夫人によるといつも赤いジャンパーを着て、目がクリクリしていたそうです。丸尾さんは中学2年のとき、日高で開催された子ども大会の分級座談で信を得ます。

通信教育で苦学して小学校の先生の資格をとります。経理事務で働いているときに京都大学卒の中国文学が専門のご主人と出会い、27才で結婚します。結婚式は、増井悟朗先生媒酌で華光会館で行われました。

その後、京都市に採用され56才まで教師として働きます。キャリアの後半は養護学校の先生でした。その間、華光会とのご縁が遠のきます。退職後、30年前振りに華光会の東京講演会に参加します。質疑コーナーで手を挙げて「華光会に久々にお参りしましたが、全く変わっていないことに安心しました」と言われたことを、華光に参加して間もない私はよく覚えています。

10年前のインド仏跡旅行では私たち夫婦と共に参加していました。今は、華光会の京都支部長としてご活躍です。

2019年8月

第49回 植田勝彦さん

2019年現在、50才で三姉妹のパパの植田さんです。お母さんが熱心にS会の聴聞に行っていたため、小学校時代は一緒にお参りしていました。中学・高校はバスケ部に入り足が遠のきます。神戸商科大学卒業後は証券会社を経て彦根市役所に入ります。

32才で結婚し、奥さんがお母さんとのご縁でS会に入ります。教学短冊で勉強しているのを見て興味が湧き、再びS会の聴聞に行くようになります。滋賀、富山での法座に年に数回参加します。10年前にネットでS会の批判サイトなどを見て疑問に思い、親と話し合い、植田さんのみS会を退会することになりました。

伊藤康善先生の『仏敵』を読み、華光会の法座にお参りするようになります。華光会館、名古屋、東京、高山の法座に参加し、2年半ほど聴聞を続けます。阿弥陀様に対する疑いが課題、テーマとなります。どうしても疑いが晴れません。求道が停滞してしまいます。

8年前の報恩講での増井裕子さんの初めて法話のとき「ウソでもいいから聞いて下さい」との声が聞こえてきます。ウソしかない自分、全部が疑いの自分が知らされ、その疑いに願いが掛けられていることに気付きます。疑いが取れるということではないと知らされ、いままで力を入れていたのが、力が抜けてしまいます。私とは求道期間がダブっており、当時は座談でお互い力んでいたのを覚えています。

後でその法話のCDを聞き直すと「ウソでもいいから聞いて下さい」との言葉はありません。阿弥陀様の声なき声でした。今では、お子さん方は5年ほど華光会館の日曜礼拝に参加しており、春の子ども大会にも昨年、参加したそうです。

植田さん自身は2018年の華光大会で、谷本朗さんから運営委員長を引継ぎ、ご活躍です。今年の6月は植田さん企画による初めての支部長研修会でした。

2019年7月