兵庫県豊岡市の谷本朗さんです。昭和34年2月生まれです。
朗さんの名付け親は今年8月にご往生された増井悟朗先生で、悟朗先生から一字もらわれています。息子さんの増井信先生は、自分が生まれた時には「朗」の字は使われていたので「信」になったと仰っています。
平成17年に豊岡市に合併するまでは日高町でした。60年ほど前から悟朗先生が布教され、強信の同行方がたくさんおられます。朗さんのお母さんの谷本初代さんは独身時代から悟朗先生の法座にお参りしていたそうです。
朗さんは、こどもの頃から仏教的なものに興味がありました。中学時代に高田好胤師(法相宗)の『心』を愛読していたそうです。高校2年秋に父親と死別、葬儀のときの「白骨の御文章」が妙に心に残ります。その後、浄土宗系の京都の佛教大学社会学部に進学します。
その大学時代の身元保証人を悟朗先生が受けて下さり、それからが何も知らない朗さんが日曜学校、仏青、法座等でご法と関わっていきます。求道を意識することなく求めていきます。その朗さんの後生の目覚めをお取りつぎされたのも悟朗先生で、大学三回生の秋。「自分が死んでも変わるものがない」と「人世間愛欲の中に在りて独生じ独死し独去り独来る・・・」を痛感します。
40才の時に脳梗塞、脳内出血により入院します。朗さんは、この入院中にあらためて『真宗聖典』『仏敵』『親指のふし』などを読み直し、有田修司さんから報恩講のお世話役を依頼されたのを機に、華光会に戻ります。朗さんは、獲信してからの方が聴聞の中に生活があることを知らされます。
現在は華光会の運営委員長を務めています。親鸞聖人750回大遠忌法要、増井信先生継職法要、増井悟朗先生の葬儀の役にあたったことを不思議なこと、有難いことと、南無阿弥陀仏を慶んでいます。
大遠忌法要の記念パーティの席では、司会をしている二三代さんの隣の席で、感極まって大声で号泣念仏していました。マイクの声よりも大きな念仏が、とても印象的でした。
2015年10月