2021年 の投稿一覧

第35回 浦田鈴香さん 下

金山先生の仏教勉強会に毎月参加していると、スゴイ!だんだん阿弥陀様が指さして自分のことを言っている、思ってくれていることを感じだします。阿弥陀様は応援してくれていると、ルンルン気分で目からは涙を流しながら、自転車で帰っていました。その当時、講座の最中に目頭を押さえて聞いている姿が印象的でした。

そのルンルンが今度は私が地獄に堕ちるんだという聞き方に変わっていきます。2015年12月から仏教を聞くのが苦しくなってきます。ただ好奇心だけで勉強会に来たはずなのにと、すずさんはよく座談で言っていました。求道になってきていました。

ニセモノの自分は全部ウソだった。ケシゴムで消したい!と思います。その夏に本当につらくなり、丁度送られてきた『ヤマサキズム』に福岡の有田さんが妙好人として載っています。そうだ、有田さんに聞いてもらおうとお店に行きます。ところが有田さんは傷に塩をぬるような、鬼のようなお話をされたそうです。

帰りに増井悟朗先生の「ご恩と罪悪」という誌上法話のコピー10頁をもらいます。少し読んでは、自分の身を考え、遅々として進まず、読み終えるのに2週間かかりました。まさに「聞思して」です。読み終わった瞬間、何も聞いていなかった、わかっていなかった。毎月ちょっと来ているだけで何様と思っているんだと、大笑いします。

それなのに勉強会の人たちは毎回、ようこそ、ようこそと迎え入れてくれていた。これは謝らないといけないと強く思います。その月のうちの家庭法座で金山先生の車で懇親会場の『あり田』に移動するときに、たまたま助手席に座ることができたので、「何も聞いてこなくてすみません」と謝ります。金山先生から「ここにニコニコしながら来るのは浦田さんぐらいですよ」と言われます。

すずさんは最近、会うたびに「山崎さんと遇えてよかった。遇わなかったら、また迷いを繰り返すところだった」と言ってくれます。ニュースレターが取り持った阿弥陀様とのご縁です。

2018年5月

第34回 浦田鈴香さん 上

福岡県福岡市のすずさんです。出身は福岡市西区の玄界島で、2005年3月の福岡県西方沖地震では、家屋の約7割が全半壊となり最大の被災地でした。すずさんは現在、福岡市で企業の支店経理・総務の仕事に就いています。

お母さんは神棚・仏壇に毎朝参る信心深い人で、仏教は宗派にこだわらず『般若心経』を毎日あげていました。お陰で、すずさんは今でも『般若心経』を暗唱しているそうです。

すずさんは30代半ばから、いろいろなことを知りたい欲求が強くなり、いろんな人の話を聞きに行きます。そのうち、自分がスゴイ!と思う科学者や文学者たちがことごとく仏教の話をするので、これは何なんだと思います。

そんなに仏教に興味があるんだったら、福岡県の篠栗町に行ったらいいよと勧められます。篠栗町には真言宗の南蔵院など多くの寺があります。それからはお寺巡りが趣味となり、お寺・仏像を見て、仏様のお話を聞きます。しかし仏教を学ぶにしても、どこから勉強したらいいか判らないし、手をつけたくない気持ちが出てきます。

私とは読書会で一緒になり『月刊ヤマサキズム』を送っていました。それににA4 1枚の金山玄樹さんの仏教勉強会の案内が入っていました。金山先生は若そうだけど本職の僧侶なので、見た瞬間、行こう!と思います。それが4年前のことです。それから2回休んだだけで(うち1回は日程間違い)ほぼ皆勤です。

ほとんど飛び入りですずさんは参加してきました。当時の印象は、ニコニコ楽しそうに毎回参加しています。すずさんの方は、その時の自分が持っていた疑問に対して、毎回、質問もしていないのに、何故か金山先生が講座のなかで答えてくれるので、面白くってしようがなかったそうです。その聞法がだんだんとつらくなってきます。

2018年4月

第33回 孤杉信子さん

孤杉英章先生のお母様の信子さんです。教行寺(大谷派)の坊守さん(ご住職の奥さん)です。伺った時は、ご門徒さんの逮夜参りから戻られたところでした。

ご実家は真宗興正寺派のお寺です。小さい頃から、お母さんに付いて多くの寺参りをしていました。実家のある八木町から電車で5分の大和高田市のガラス屋さんの家庭法座では、毎月19日、伊藤康善先生のご法話を聞きます。伊藤先生は栗のように黒い顔で面白い先生だったそうです。

勉強ができて、高校では「陸の女王」(スポーツ万能)といわれていたお姉さんと、両親の4人家族でした。とても可愛がられて育ちます。高校生の頃はふっくらとして「お月さん」と呼ばれていました。

奈良教育大学に進学します。その頃、高田の御坊に5日間(午前は講義、午後は説教)や八尾別院(夏休みに宿泊してこれも5日間)でたっぷり聴聞できました。卒業後、小学校の先生を20年間勤めます。その間、6人兄弟の長男となる御住職(現在)と結婚し、25才で長女を、28才で英章先生を出産します。

増井悟朗先生が教行寺にはじめて来られたのは1991年9月の秋季永代経でした。それ以来、1年に1回来て頂きました。法要の翌朝、先生の朝食の時間は、信子さんにとって二人だけの至福のときでした。

31才の時に小さな手術をし、病院からタクシーで実家へ直行、すると永代経が勤まっていました。翌朝、目覚めるなり本堂へ行きました。あとから本堂に来た吉阪布教使(女性)にアミダ様のことを聞いてみようと思いました。5分間ぐらい話しているうちに突然、頭の片側がもやで覆われ、もう半分の頭が何やらつぶやいている。「ああ、このままやったんか。このままでよかったんや!」。突然、念仏がほとばしり止まりません。号泣も止まりません。天にも昇る心持ちになりました。

悟朗先生は信子さんにとってアミダ様、アミダ様の化身だったのです。何と勿体ない、申し訳ない。ありがたいの他はありません。ご自分のことはほとんどお話したことがないとのことですので、貴重なお話を聞かせて頂きました。

2018年3月

第32回 嶋田久義さん

2018年1月9日にお亡くなりになった嶋田久義さんです。68才でした。昨年末に完成したばかりの「あなたの白道」を送って頂き、1月17日に福井赤十字病院にお見舞いに行く予定でした。航空券も予約していたので、予定通りに福井に行き、ご自宅にお参りいかせて頂きました。飛び込みで行きましたが、丁度、奥様の幸美さんが仕事から戻ってきたところでした。

お話を伺うと、一昨年の年末に間質性肺炎と診断され、かなり深刻な状態であると告げられます。1ヶ月半の入退院生活の後、入退院を繰り返し、急性増悪を発生したとのことです。

嶋田さんとは、私が10年前に華光会に初めてご縁が遇ったときに、23年振りにお会いしてビックリしました。嶋田さんご夫妻もその年に華光会とご縁を結んだところでした。

嶋田さんの生い立ち、求道遍歴は「あなたの白道」に詳しく記されています。華光会では、幸美さんの方が早く聞き抜かれ、嶋田さんご本人は相当に苦しそうでした。それでも、それから半年後の華光大会のときの増井悟朗先生の分級座談で、御名号の前で念仏し信心をいただかれました。

御名号の前で手をついて頭が下がったままの状態で分級が終了し、嶋田さんに近寄って「おめでとうございます」と声をかけました。しかし、嶋田さんは「違う!違う!」と頭を振っています。1週間後、華光会館の聖典講座に奥さんだけ参加され、お尋ねすると、「あれからお互い話し合ったら、間違ってなかった」とのことです。

次の年の嶋田さんからの年賀状には「摂取不捨とはこういうことだったのか!」と記されていました。幸美さんによれば、かつての仲間のことをずっと心配し、気にかけていたとのことです。還相回向のご活躍をされていることでしょう。

2018年2月

第31回 北島登美子さん

奈良県生駒市の北島登美子さんです。芋が大好きで、小さい頃は「イモ姉ちゃん」と呼ばれていたそうです。大阪で生まれ、4才の時に父親が亡くなり奈良県大和のお母さんの実家で育ちます。西光義敞先生の室生村の隣村です。賢い子と褒められ、おやつがもらえるので、万行寺含め2 ヶ寺に参るのが楽しみでした。

北島さんが小学2年生の時に、お母さんが大阪の工場に働きに出ます。離れ離れになり、大変、さみしい思いをします。成人し、お母さんのご紹介により結婚して大阪で母親と同居を始めます。ところが、あれだけ恋しかったお母さんを邪魔に思う心がでてきます。

そんな自分の心がイヤになり、これではいかんと思っているところに、祖父に仏法を勧められます。祖父は法を歓んでいる剛信な方で、西光先生経由で華光会にご縁を結んでいました。

現在の生駒市の家を、余った木材で祖父が建ててくれます。祖父はガンを患っていましたが「これは仏法を聞くための木やぞ!」と強調し、これが契機となって華光会にお参りするようになります。祖父が亡くなり、お葬式のときは普通でしたが、荼毘に付すときに、紫の煙が登美子さんの目には見えました。これは聞かんといかんと思います。

華光会にご縁があったのは、悟朗先生の長女の増井聞子さんが成人式の頃です。間もなく聞き抜かせてもらいます。周りの皆があれだけ苦しんでいるのに、こんなに簡単に頂けるものかと、一旦は信心が崩れます。更に聞かせてもらううちに、私は楽(らく)でないと聞けない者だと思い知らされます。

聞かせて頂いてからは、2ヶ月間、身も心も浮ついて、「聞いてもらいたい!」という強い気持ちが起こってきます。家庭法座は30年以上、毎年開催し、法は祖父、お母さん、登美子さん、娘さんと相続しています。現在は6人のお孫さんに華光会の子ども大会などを通じてお勧めしているところです。

2018年1月

第30回 舟本賢也さん

飛騨高山の舟本賢也さんです。華光会では、瀧山さんと並んで、ケンタッキーコンビと称します。ご同行の双璧です。賢也さんは、親戚一同が熱心な真宗門徒で、20代後半から仏書を読んでいました。おばさんの東悦子さんから増井悟朗先生の『念仏の雄叫び』を紹介され、衝撃を受けます。読みふけるほどに後生に対する不安が広がってきます。

1995年、華光会館建て替えのときに、壮年の集いが地元高山で開催されました。高山の民宿で座談では「ぜんぜんあかんなー」と言われ反発します。祖母からも、母からも勧められますが、とうとう爆発して「仏法なんか聞かん!」と自分の部屋に籠もり、ベッドに潜り込んでしまいました。

求めているものは何だったのか、反発の心しかないことに気づきます。他の人は獲信できても、オレは獲信できんと心底思います。しかし、仏法は大事、獲信できんけど、聞くことはできる。ただ聞いていこう、自分にできることはそれだけだと思うと、気持ちがスーッと軽くなりました。

それまで法座では居心地が悪かったのが、年明けての報恩講では、法話もスンナリと入ってきて、座談でも発言ができる。獲信にこだわりがなくなりました。松岡宗淳先生から「それは自力が捨てさせられてんやね」と言われます。

次の日の仕事中に自問自答します。南無阿弥陀仏とはお前を救うことや、頂くことは聞くとや、南無阿弥陀仏は今聞いとるんや、今までも聞いてきたんや。アレッ? 何や、こんなことやったんかと、じわじわと喜びがでて、念仏が飛び出してきます。昼休みに吹雪のなかを、傘をさして「南無阿弥陀仏!南無阿弥陀仏!」と念仏します。

そのお味わいを母親の民子さんに毎晩2時まで話し込みます。とうとう3日目には、もう判ったから寝させてくれとお願いされてしまいました。私にとって畏敬のご同行です。

2017年12月

第29回 丸山顕子さん 下

「真宗カウンセリング研究会」は、西光義敞先生とお話ができ、松岡宗淳先生、山下和夫さんと出会います。本当のことを言っている人達だなーと思います。続けて「聞法の集い」の2泊3日に参加します。その後、松岡先生が送られた増井悟朗先生の『親指のふし』を何回も読みます。が、全くわからずやがて仏法のことは忘れてしまいました。

そして今生の悩みで一杯になり、3度目の自殺を図ります。ここでも一命をとりとめ、手首を切って血で汚れた毛布を洗濯しようとボーと見ていたら、自分はお母さんのお腹の中にいて、乳(血)を飲んで育った。もとは同じものなんだし、母親が好きでも嫌いでもないと思えます。

自分は結婚もせず、子どもも産んでいない。淋しい。あー、こんな自分でも阿弥陀様は「いい」と言ってくださるんだと思い、ホッとしました。そして、嬉しくなり、有り難くなり、仏壇の前で念仏を称えていました。信心を頂くということも知らないままでした。自分を見る目を頂きます。それからはいろんな気付き、不思議な体験をします。

翌年の「聞法の集い」に参加した時もまだ救われたことに気付けませんでした。帰って『親指のふし』を読み直し、嬉しいとかいうレベルじゃない、もうこれは有難すぎて、怖いと思いました。これが38才のときです。

数ヶ月後、朝倉の井上健一さんの家庭法座で、増井悟朗先生に初めてお目にかかりました。その時に気持ちを少しお話しすると、先生が「疑いはないんですね」と言われ、私は「はい」と答え、「あれ? どうして疑っていないんだろう?」と思いました。1週間ぐらい経って「ご信心を頂くというのは、信じる心を仏様からもらうんだ。だから何故だか分からないけど、信じられるんだ」と気付きます。

家庭法座の際に、ご本人の口から、壮絶な半生を聞かせて頂き、とても尊いご縁でした。

2017年11月

第28回 丸山顕子さん 上

京都市在住の丸山顕子さんです。丸山さんには『いっちょんひげんの彼方』という著書があります。「いっちょん」とは、博多弁でもいいますが、全然、全くという意味です。丸山さんは福岡県の朝倉の出身です。「ひげん」とは嫌いという意味だそうで、「なにもかもイヤだ」というのが小さい頃の口癖でした。

お姉さんの時は、初めての子で大変喜んででいた父が、顕子さんのときには、男の子ではなかったため、ほぼ見向きもされず「要らない子」と思い込んでしまいます。父はキライでしたが、学校に行けなくなったのは反抗や反発からという実感はありません。アドラーの心理学では「復讐」だし、自分でも、仏智を頂いてから、そんな感じはしてましたが、その時は、実感しませんでした。無意識のところだから・・・。

無意識の悪気に気付かねば、本当には変われないのは分かりますが、落ち込んでいる時に人から指摘されたら、ますます傷つくし、理解できない気がします。だから相手によりそうロジャースやジェンドリンの方法の方が好きです。

小六の時、友人からのイジメにより、不登校になります。学校の先生をしていた父親は、自分に対する反抗と受け取り、お父さんから首を絞められたこともあるそうです。高校生の時に父親が亡くなり、17才の時に最初の自殺未遂をします。次に、決して私をありのままに認めてくれない、母親に対する嫌悪感を覚え、社会に適応できずにひきこもりとなります。25才の時に、2度目の自殺未遂をします。

35才の頃、お母さんの定年が近づき、社会への適合を焦ります。カウンセリングを受けていましたが、あるとき「本願寺新報」に載った「真宗カウンセリング研究会」に興味をもち、3泊4日の合宿に参加します。

2017年10月

第27回 山下和夫さん

西光義敞先生が提唱された真宗カウンセリングは、私自身は先生の生前にご縁がなかったため馴染み薄いものですが、山下和夫さんはカウンセリングのプロです。龍谷大学文学部社会学科1年生の授業で西光先生に出遇い、カール・ロジャースのカウンセリングを学びます。1年生の秋には真宗カウンセリング研究会に入ります。

最初に興正会館でのワークショップに参加しました。初めて正信偈をあげますが、違和感を感じてしまいます。松岡宗淳先生が4年先輩としておられました。同研究会主催の「聞法の集い」では増井悟朗先生の座談を受けます。大学卒業後、老人ホーム、児童養護施設で働きながら、カウンセリングの勉強を続けます。

10年後、ロサンゼルスにあるPlay Mountain Place(PMP)でインターン研修生として滞在し、自由の教育を学びます。ここでは「自分を知る」に繋がっていきました。その後、龍谷大学大学院社会福祉学専攻を修了します。しかし、カウンセリングをどれだけ学んでも不安・悩みの解放へとなりません。同時期に華光会で聞き始めます。悟朗先生よりロスの同人を紹介して頂き、米国でも月1回の海野徹雄先生の法座に出るようになります。

帰国後、38才のとき座談で信を獲ます。以下、山下さんの「Person-centered Approach(PCA)と聞法による究極のめざめ」からの文章です。

「仏様がそこまで来ていなさるのやと仰います。増井悟朗先生の話はずっと続きました。最初の内は何となく不思議な感じでしたが、話が良寛様の涙の話になったとき、思わず手を合わさずにはおれないようになり、涙が出て私の腹底を破ってお念仏が出ていました。もったいないやら、うれしいやらで畳の上に体を全部投げ出してしまいました。」

北海道聞法旅行には奥様と参加されていました。いつも楽しそうにお話をされていて、とても仲のいいご夫婦です。

2017年9月

第26回 増井行子さん

三回忌を迎えた増井悟朗先生の奥様、行子夫人です。悟朗先生とは10才の年齢差があります。今年、82才になられます。行子さんは和歌山県の出身です。小学生の頃、高森先生が、当時は京都から数週間、布教に来ていました。その期間は毎晩ご法話があり、大人たちは着物を着てお参りしていました。

お姉さんが先に聞かせてもらっていました。その歓びようが凄く、有り難い念仏を称えていました。小学4年の行子さんも友達と二人で聴聞するようになります。信心を頂かなかったら地獄行きということで、毎晩、40~50人の村の人は、ほとんど参詣をしていたそうです。法話の後、それぞれ集まって、どうしたら信心を頂けるんやろとお互いに示談します。

昼間、お寺に行って欄干にもたれて外を眺めていたら、暗くなってきたので、帰ろうとします。ところが草履がありません。途方にくれてしゃがみ込んで泣いていると、本堂に連れて行ってくれました。本堂の中で泣いていると、光明が西から照らされ、すごい念仏が吹き出てきました。畳の床を突き抜けてまで埋まるほど頭が下がります。地獄に行かないかんという思いがスーッと消え、嬉しいやら恥ずかしいやらになります。

悟朗先生との出会いは14才です。ご法座に来られた時に自宅に寄られていました。中学を卒業する際に、中央仏教学院に行くように勧められ、夜間高校に通いながら、中仏に行って得度を受けます。悟朗先生と結婚されたのは19才! プロポーズの言葉は「一緒に法を伝えていかへんか」だそうです。それに対して「私も一緒について行きます。よろしくお願いします」と応えられます。

悟朗先生の昔のご法話テープを聞くと、行子夫人の笑い声がよく入っています。いまでも、華光会館でのご法話、座談にはいつも顔を出され、お元気です。

2017年8月