親鸞聖人は、妙好人のことを「信心の人を釈迦如来はわが親しき友なりとよろこびまします。この信心の人を真の仏弟子といへり、この人を妙好人とも、最勝人とも、希有人とも申すなり。」と仰ってます。

第107回 吉貞翠江さん 下    

M和上からの文書に載っている話です。三田老人の奥さんが臨終に、「聞かぬじまいで死んでゆくのが悲しい。一言お教え下さい」との問いに、原口和上は「5年10年聞いても、いよいよとなるとまた今日と同じことになるぞ。どれほど聞いても聞いても、聞いておいてよかったわいとう所詮は、わが心の上には出てこぬぞ。よって聞かぬじまいで死んでゆけ。そのまま死なせてもらえ」とのいいながら、「私は学寮へ急ぐので、また来てもいいが、来たとしてもこれだけじゃ」と言って行ってしまわれます。

吉貞さん自が、臨終で聞くかもと期待していましたので、原口和上の「聞かぬじまいで死んでゆけ」ということが引っかかってしまいます。吉貞さんは、「死んでいけ」と言われた人が自分のことのように思えてきます。広島の聖典講座やZOOMでご一緒している三田さんに尋ねてみます。三田さんは、松塚先生のお弟子の三田さんで教師をされていて今は僧侶になっている方です。

日頃は三田さんはおとなしい方なので、優しいことでも言ってもらえるのではと「この人はどうなるんですか?」ときくと、三田さんは大きな声で「堕ちるんですよ! 堕ちることしかしとらんじゃないですか!」と言われます。吉貞さんは「あ~、堕ちるんか」と沈んでいきます。三田さんは「助けるのは仏さんの仕事ですよ!」と大きな声で言われました。「あ~、そうだった!そうだった! 私は自分で自分を助けようとしとった」と気付きます。「いらんことしとった! 自分でどうにかしょうと思っとったけれども大間違いだった」とわからせてもらいました。

吉貞さんは「それだけなんですよ。あと何にも無いんですよ」と言われ、「自分でどうにかなると思とったけれども、全然、間に合わんことだった」と言われます。素晴らしいです。60年間、聴聞してきましたが、聞き開くのはアッサリしたものでした。他になんにもありませんと言われます。涙ながらに語られて、私はとても感動し、感銘いたしました。

第106回 吉貞翠江さん 中

20才に仏法に出会って求めますが、なかなか聞き開けません。これはもうダメなんじゃないかと思います。

2009年2月に華光会のインド仏跡旅行がありました。私の家内もそこで始めて華光会と縁を結びます。そこに吉貞さん始め広島からも4名参加していました。金山玄樹先生は新婚旅行として来ていました。

2014年4月に仏青と九州支部の合同法座が金山先生の浄圓寺で催されました。全国から同行が集まり、広島からもたくさんお参りします。吉貞さんはたまたま隣りに座っていた私に、「このままでは聞けない。自分は臨終に聞くんじゃないか?」と尋ねます。私の記憶にはないんですが、私は「あっ、それでは間に合いませんよ」と言ったそうです。そうか間に合わないかと思い、金山先生からも年を取れば取るほど聞き難くなると言われてしまいます。

相変わらず、京都の華光会館、広島の支部法座には参加していました。大きな喜びを得たことも、号泣念仏したことも数知れず。しかし、後になると、慶びは消え、違うとなってしまっていました。私自身も何度か、吉貞さんが喜んだという噂を耳にしました。50年近くそのような状態だったので、吉貞さんは西の横綱と呼ばれていました。

コロナ禍になって、生の法座が途絶え、ZOOMでの法座が増えました。そんな時、富山のM和上から正木姉妹に宛てた文章が回ってきました。『信者めぐり』の「肥後原口針水師の法話」からの引用です。『信者めぐり』を記録した三田老人の奥さんが、九死一生の大病となります。奥さんは「まるきり聞かぬじまいで死んで行くかと思えば、それが何より悲しい」とうったえます。

そこで、早速、勧学の針水和上にかけつけ臨終説法をお願いします。和上は「それは大変じゃ、今直ぐ行ってやろう」と学寮に行く途中に病床を尋ねます。三田老人は奥さんを抱え起こして、どうぞお一言と申し上げます。

第105回 吉貞翠江さん 上          

広島県安芸高田市の吉貞翠江(あきえ)さんです。2023年に83才になられます。生まれは上海で、終戦時には満州のロシアとの国境付近に住んでいました。

お父さんは「官吏」として日本人を取りまとめる仕事をしていました。ロシアが攻めてくるので、皆で逃げます。5人兄弟のうち、次男と次女と三男は亡くなり、長男と長女の翠江さんはお母さんと港まで逃げてきます。お父さんはロシアにつかまりシベリアに送られるところを脱走し、昼寝て、夜歩いて、港までたどり着きます。家族4人で広島に戻ります。5才のときでした。

広島市は原爆のため母の実家のこともわからず、父親が出身の三次市に身を寄せます。その後、母の実家の事情がわかり、3年後には広島市に家族で出てきました。

吉貞さんのお祖父さんの川手武一さんは米国に移住して、弟の米一さんと一緒に農場を持ってぶどう作りをしていました。そこに日本から羽栗行道先生が回教に来られます。これはこのまま米国にいてはいけないと、羽栗先生が回教を終えられて帰国されるときに、ぶどう農園は米一さんにまかせて、羽栗先生と一緒に米国から広島に戻り、親戚を集めて羽栗先生のお話を聴いてもらいます。

吉貞さんのお母さんは小さい頃から仏法を聴いており、信心はいただいたことになっていたようですが、終戦のドサクサで信心がどこかにいってしまいます。お母さんは終戦後に聞き直します。母が求道で苦労しているのを、小学生の頃から見ていました。それで仏法は聞かなければならないものだとは思っていました。

20才のときに華光会とご縁ができ、5人で広島支部を作ります。吉貞さんの求道が始まりました。24才で結婚し、27才のときに安芸高田市でご主人とタクシー会社を始めます。タクシー会社は、当初は夫婦お二人で、翠江さんが電話番でご主人がタクシー運転手をしていました。いまでは息子さんが事業承継して社員5名ほどの立派な会社です。

子育てと会社経営で忙しい間も、お母さんから、華光誌、悟朗先生の書籍などが送ってきていました。

第104回 古家勝彦さん 

千葉県松戸市在住の古家さんです。令和5年で79才となります。北海道室蘭市の出身です。土地家屋調査士として神奈川県で事務所を構えていました。

平成6年1月にNHKテレビの「こころの時代」に増井悟朗先生が出演され「求め、捨て、転じられる」と、浄土真宗の教えを話されます。これを観て古家さんは、「アッ、自分にはこれしかない!」と思い、華光会館に連絡します。福井の尾崎さん、名古屋の栗田さんと同じ時期にご縁がありました。

最初は東京での法座に参加し、京都での永代経などにも参加するようになります。とうとう、事務所を閉めて、京都の華光会館に住み込んで求道をはじめます。悟朗先生の『親指のふし』を何度も読みました。悟朗先生の運転手として3年ほど、法座についてまわり、聞法します。

平成8年、52才のときに白昼夢を見ます。崖から突き落とされ、地獄に真っ逆さまに堕ちていくと、下から光がガーンと上がってきて、阿弥陀様の光に包まれます。しかし、自分ではこれは化生の世界ではと思い、この体験が獲信なのかどうかわからなくなってしまいます。

それから3年間、自問自答を重ねました。尾崎さんの家庭法座で横田慶哉師の『吾が信念』を借り、「南無阿弥陀仏のいわれを聞き、お勅命の声をきかせてもらうのじゃぞ!」のところで、阿弥陀如来の大悲の招喚の勅命が、我が身めがけてあらわれ、目にもの見せてくれたことを知らされました。阿弥陀様の大願業力が、化生の世界を突き破って、自分のこの心身へ飛びこんで下さりました。これが55才のときです。

その後、得度を受け、僧侶となり葬儀などにも携わるようになりました。ブログの発信などもされていたそうです。今回、瀧山さんからのご紹介により、ZOOMではじめてお会いしました。お互い、仏法のことを話すうち、懐かしい感じを覚えました。ご縁があればリアルでお会いしたいです。

第103回 谷本とし子さん 下     

近所の谷本ひさおばあちゃんの家に泊まりによく行っており、その度に寝る前に50回念仏称えなさいと言われます。なにかと念仏を称えさせられます。

17才のときに、近所の隅田和代さん、節代さん達のお姉ちゃんが聞き開いたと教えてもらいます。自分も連れていってくれと頼みますが、ひさおばちゃんは「自分のことだから自分で行きなさい」と言われます。

そこで、増井悟朗先生のご法座に一人で行ったら、満席で座るところがありません。そのときに、悟朗先生は卵の話をされました。また、卵のことかと驚きます。話を聞いて、卵が喉を通らなくなります。卵を食べれんかったら何を食べる? 胸が苦しくなって食べるものがなくなってしまいます。

悟朗先生は、毎日、幻灯会(紙芝居)をされますが、地獄・極楽の話ばかりでした。鬼が登場すると先生は鬼の声、仏になったら仏様の声となってお話されます。

とし子さんは「先生!分かりません!」と晩も朝も隅田和代さん宅に行き、1週間も2週間も「わかりません、わかりません」と、悟朗先生が寝ているところを起こして、ご示談してもらいます。

「何にも食べれんし、何にも喉に通らん」と悟朗先生にうったえると、「ヘビでも食べるで! 人間は! その口は!」と仰いました。とし子さんはそれをきいて「ギャー」とビックリします。悟朗先生は法衣を着て座っておられるところに、如来さんの光がブワーッと一面に、真っ赤な光が輝きます。「先生、この手が上に上がっていく、この手が離れん!」と、そのときに仏さんの光とお出会いしました。

近所のおばあちゃん達は「良かった!」と大変喜んでくれました。それが17才の時で、85才の今も、68年間、聴聞、ご讃嘆を続けておられます。華光会館にまでなかなかお参りできなくなりましたので、この度、ご自宅でインタビューさせて頂きました。

第102回 谷本とし子さん 上

兵庫県豊岡市日高町の谷本とし子さんです。2023年に85才になられます。日高町はとても仏縁の厚いところで、かつて伊藤康善先生は住民の半分は聞き開いているのでは言われたような土地柄です。とし子さんの祖母は鎌田先生という方から教えを受けていました。鎌田先生は伊藤康善先生、増井悟朗先生が布教される40年ほど前に布教されていました。

鎌田先生からお育てを受けたおばあちゃん達が自宅の通り添いに7~8人いて、とし子さんは人気者で、おばあちゃん達のおつかいをしていました。小学校4年生のとき、運動会で足を痛め、手術をします。近所のおばあちゃんのうち谷本ひさおばあちゃんは、カゴ一杯の卵を買ってきて、「早く元気になれ、元気になれ」と、毎日、卵を食べさせてくれました。

谷本ひささんは鎌田先生のご教化により聞き開いていた方です。それは伊藤康善先生の『われらの求道時代』に載っています。

引用ここから~

一段と声を高めて「その念仏はどこの念仏か」「ハアーッ」「あなたの称える念仏が親様じゃないか! 生きた親様じゃないか!」と中啓を畳に叩いて申されました。私は正直に人の言葉を信ずる性ですから、「ハアーッ!」とかしこまって、「私の称える念仏が親様ですか」と申しますと、「そうじゃ、お前を助ける親様、只今息が切れても助ける親じゃ。今じゃ、今じゃぞ」と申されました。「御院家様それ本当ですかい」と申すと「本当じゃ本当じゃ」と申されました。私は驚きのあまり魂がジリジリ舞いをいたしました。思わず身も忘れて泣き崩れました。

~引用ここまで

その谷本ひさおばあちゃんの背中に卵大の大きなできものができました。小学生のとし子さんにでき物に薬を塗ってもらう度に、50回念仏を称えさせ、なにかと仏法に結びつけてご縁をつけてくれます。

第101回 山崎光さん 下

光は二三代さんと二人でよく筥崎宮の参道を散歩しています。その時に、いろいろと会話しているそうです。ある日「一度きりの人生やけん」と言った光に対して二三代さんは「ほんとうに一度きりかな?」と返し、心がザワつきます。

2020年、コロナ禍になっての家庭法座での座談で、光の発言が変わってきました。親に対する思いや、姉妹のことを心配することを話すようになってきました。発言のたびに涙ぐんでもいます。信先生からは「結局は、光ちゃん一人のことなんですよ」と声をかけられます。

秋の大分法座で、悟朗先生のピラミッドの絵を見せられ、ピラミッドの下には「仏さま(地獄)」が書いてあり、体験記には「いろんな犠牲の上に私がいるんだということが目に見えて分かりました。本当に、私は自分が一番で、何もかも自分一人で手に入れてきたように思ってしまいます。それをすべて受け止めてくれる、一緒に落ちてくれるのが、仏様です」と記しています。

「私はそれ以前に、自分が助けられないといけないような身であることすら、自覚していませんでした。信心とは、自分が信じるということではなく、南無阿弥陀仏と称えること。私には信じる心も何もないんだ…と気付いた時、肩の力がフーッと抜けました」と書いています。

コロナ禍で、2020年の後半に、毎月のように、永代経、華光大会、そして年明けの報恩講と続き、それまで3日間の法座だったものが2日になってお参りやすくなったこともあって、家族でお参りしていました。

報恩講の分級で、瀧山さんから「お父さん、お母さんはお浄土に行けるけれども、光ちゃんはそこに行けなくていいの?」と尋ねられます。「自分も同じお浄土に行きたい」と強烈に思い、その場で聞き開いたと二三代さんから教えてもらいました。別の分級だった私は思わず光の肩をたたき、「光は聞けると思いよったよ」と喜びました。今生のみの家族ではなく、後生も同じ浄土に生まれる身となり、こんなに嬉しいことはありません。常々、二三代さんは私にとっての観音菩薩と言っていますが、光ちゃんは私に最も厳しい勢至菩薩と味わっています。

第100回 山崎光さん 上

この『現代に生きる妙好人』は8年前の第1回に増井悟朗先生にご登場を願ってから、記念の第100回です。100回目は山崎家の次女の光(ひかり)ちゃんです。

本人の信仰体験記が『華光誌』の第82-3号(2023年6月)に掲載されました。体験記を書いたことは聞いていました。原稿は、私も二三代さんも事前には全く見ていません。『華光誌』で始めて読ませてもらいました。一読して、家内と「よく書けているね」と感心しました。私が順縁でなく逆縁だったとは、申し訳ない思いで一杯になりました。

タイトルは『うれしい!幸せ!阿弥陀さま!』です。大谷理恵さんからは「タイトルからピカッと光を感じ、うれしくなります。尊いですねぇ、ご両親をとおしての弥陀のお育てが身にしみてきます」のメッセージを頂きました。ありがとうございます。

浄土真宗本願寺派の宗門校である筑紫女学園の中学・高校と通いました。勤行は『十二礼』の節が人気があったそうです。

光が高一のときに始めての家庭法座を催し、増井悟朗先生に来て頂きました。最初のご法座でいきなりご示談となり、悟朗先生が当時の事務所の床に「こうするんや!」と五体投地までされました。それを見たご同行方は、いきなり善知識が身を投げられたので感激していましたが、娘3人は、身を寄せ合って固まっていました。

その後は毎年、夏と冬に増井信先生に来て頂いています。娘たちもほぼ参加しています。法座に慣れてきた頃、信先生から「阿弥陀さんはいい人にならないと救わないと言っておられますか」と尋ねられ、「欲と愚痴にまみれたそのまんまの私がお目当てなんですよ」と説かれます。「そうか、だから父もいい人になる気配もなく、そのまんまの姿を見せていたんだ、と納得しました」と体験記に書いてあり、恥ずかしく思うよりも、よくお話しを聞いていると感心しました。大分の首藤さんからは「光ちゃんはまっすぐ進んでいる」と太鼓判を押してもらいました。

第99回 石黒八重子さん 下

悟朗先生からのお手紙を石黒さんより拝借し、転記します。

「大会にお出かけ下さるそうで何よりです。業は果たすだけ果たさねば値切りはできんでしょうが、それでももろもろは捨てていくべきものばかりです。

後生の一大事に腹をすえたら、あとはそらごとたわごとですね。自らの業の深きは如来が私にかけてくださった念力の深さを思わせられる種だと気付かせてもらうためです」。

この手紙を孤杉英章先生にお見せすると、孤杉先生は業についてしっかり勉強され、ご法話をして下さいました。

石黒さんが強調されるのは、一つに大海原で大きな船が爆破して木っ端微塵となり、板きれにしがみついていても、助かる見込みがない自分が知らされたこと。二つに本願文の「唯除」についても、救いから洩れていることが知らされましたことです。

4~5年、ご法座から遠ざかっていましたが、その後、復帰され、私たち夫婦も、インド仏跡旅行や、北海道等の国内の聞法旅行に、数多く同行させてもらいました。

東京では、石黒さんに育てられた女性同行の方が多くおられます。皆、石黒さんが参加すると言えば参加されるそうです。

今年の永代経に参加した石黒さんの心境は、「良き師と同行、教えを聞かせて頂けたことはこの上ない幸せです。永代経の法名軸には姑の名を亡くなった後、直ぐ先生にお願いし入れて頂きました」とのことです。

この妙好人列伝に載せてはダメと断られていました。平成9年の体験発表に続き、令和5年の永代経で、華光会館での2度目の体験発表をされました。もう一度、お願いしてのご登場となりました。

体験発表では、自分は聞けるというのが迷いの元である。聞くことは難しいと強く言われていたのが印象的でした。

第98回 石黒八重子さん 上

埼玉県在住の石黒さんです。仏法とは全くご縁がありませんでしたが、昭和58年に姪御さんを華光会の子ども大会に連れて行ってくれと頼まれ、自分の娘も連れて行き、参加したのがご縁となりました。

ご同行との会話のなかで「後生の一大事」という言葉が出てきて、気楽に「それってどういう字を書くの?」と尋ね、後に生まれて一大事という言葉だけが心に残ります。あえて意味は問いませんでした。

また、「南無阿弥陀仏」という言葉が心に残ります。これもおいわれを聴かずに、ただ言葉として胸に刺さります。創価学会や、立正佼成会や、エホバの話を聞きますが、なにも響きません。おいわれも知らずに「南無阿弥陀仏」だけが胸に残ります。

本願文の「唯除」という言葉も残ります。ここは聞かせてもらわなければと、ご同行をしつこく追いかけて聞こうとしますが、相手の方が根を上げてしまいました。

和歌山の子ども大会で生まれて初めて聞いたのが御法話という言葉でした。増井信先生から、藤の花の話を聞きます。普通、花は上に向かって咲きます。藤の花だけは、下に向かって咲いています。仏法も頭が上がった状態ではなく、頭が下がったところで聞くものであると聞き、頭がズシーンと下がりました。

「仏法を聞くための道具が人生です」、と増井悟朗先生が子ども大会後の初の東京法座でお話しされ、この先生のお話を聞きたい!と思いました。その後、古い時代の華光会館に行くと、信先生から石黒さんが獲信されたことを聞いた悟朗先生が満面の笑みをたたえて道場にいる石黒さんにニッコリと笑いかけられ、「あんた、よかったな~」と声をかけられます。悟朗先生からつけてもらった法名が「釈藤心」です。羨ましいことに、悟朗先生ご自身からお手紙を頂きます。