親鸞聖人は、妙好人のことを「信心の人を釈迦如来はわが親しき友なりとよろこびまします。この信心の人を真の仏弟子といへり、この人を妙好人とも、最勝人とも、希有人とも申すなり。」と仰ってます。

第95回 松岡宗淳先生 下

華光会で求めだしてから、胸のところにサルみたいな気持ち悪いヤツがみえてきました。肩をすくめて、せせら笑っています。

悟朗先生の『正信偈講話』のときにご示談をお願いします。先生の前に座ったとたん、「ウォー! ウォー!」と泣き崩れます。「泣いてばかりいんと、しっかり聞くのや!」と言われ六字釈をお話くだされますが、「わからへんがな!」と大声で食ってかかります。

「命をかけるか!」と仰り、「ハイ」と応えると「南無阿弥陀仏の中に飛び込むのや!」と大声で叫ばれました。なかなか開かなかった口から大きな念仏が飛び出しきます。すかさず「こちらから、飛び込んで行くのでないの。飛び込んで下さるの!」と叫ばれます。次々に念仏が飛び出し、気がつくと先生に抱きついて泣いていました。サルがピンピンと輝いていました。

しかし、その後、これでよかったのだろうかとの思いにとらわれます。

31才の12月に「王舎城物語」のスライドを見て「韋提希のように阿弥陀様を見ることができたら疑わないのになあ」と思います。悟朗先生が「末代の私らには聞名得忍の仕組みがなされてある」と話されます。「アレ! ご示談の時の念仏は、私を救うために立ち現れてくださった阿弥陀様が、私の口から出て下さったのじゃないか!」と気付かせてもらいました。

風呂屋さんで洗髪しながら「念仏しようとした心は弥陀回向の心や! 仏さまはここにおったんや!」と目を覚めさせてもらい、真実信心で一杯になりました。才市さんの「わたしのこころをあなたに取らて、あなたののこころをわたしがもろて」の歌が浮かんで喜ばせてもらいます。

松岡先生とは印度仏跡旅行でもご一緒し、松岡先生の座談の司会はほぼ私がさせて頂いていました。印度の時はご門徒の方がお亡くなりになり「こんな時に!」と怒っておられたのが、私たち夫婦の爆笑のネタでした。

院号はご本人の希望では「懈怠院」でしたが、奥様の和枝さんにより「廻向院釈宗淳」とされています。南無阿弥陀仏。

第94回 松岡宗淳先生 上

浄土真宗本願寺派安明寺ご住職の松岡宗淳先生です。令和4年8月29日に76才で往生されました。生前に2回、この妙好人列伝への登場をお願いしましたが、「いや~、私なんか」と断られていました。妙好人列伝の趣旨は、読んだ人のご縁になればということですので、今回、奥様の和枝さんにインタビューをお願いしました。

初めて滋賀県長浜市の安明寺にお参りしました。元は天台宗のお寺でしたが、蓮如上人時代に浄土真宗に転派し、宗淳先生で十八代となります。開基仏御絵像裏書きに蓮如上人のご長男の順如上人の御染筆があります。蓮如上人は滋賀を経由して北陸に行かれるときに、長浜あたりを通られたそうです。

お父様の宗幹先生は前々門主の勝如上人に仕えるほど、由緒ある真宗の末寺です。宗淳先生は龍谷大学仏教学科に入りますが、結核のため数年遅れてしまいます。信楽峻麿先生のゼミに入り、西光義敞先生の真宗カウンセリングとご縁を結びます。増井悟朗先生とのご縁もありましたが、華光会は機責めと警戒します。

いろいろなところで求めていましたが、信心が獲られません。悟朗先生に相談すると、「法徳の所では、なかなか聞き開けんよ」と言われ、反発してしまいます。しかし、岩波文庫の『親鸞和讃集』を読んで喜べるようになったので、法を喜ばせてもらおうと31才の春に華光大会に参加します。

ところが、初日の吾勝常晃先生の法話を聞いてまだだと知らされます。二日目の辻本順道先生のお話で、自分とは違うと思います。ご同行に尋ねると「落ち機のところで喜ばせてもらうものだ。あんたのは化城だ」と言われ、喜ぶところが違う、やっぱりダメだと観念します。

最後の法話で悟朗先生が「仏様の御慈悲をいただかぬヤツはダレや!」と獅子吼され、惨めな思いにとらわれます。

第91回 東悦子さん 下

永代経の全体座談で、悟朗先生に手を挙げ、「グズグズしとって、一歩も踏み出せません」と言うと、先生は「グズグズしながらでも、飛び込んだらどう?」と応えられ、20分ほど、悦子さんに対してお話しをされます。先生は「手紙を読んで嬉しかった。泣きたかったら、泣いていい」と言って下さいましたが、しかし、その時は聞き開けませんでした。

2ヶ月後、家で夕飯の支度をしているときに、ふと、私は地獄しか行き場がなかったんや、私は10倍も、100倍も深い地獄行きであったと知らされます。ただ、堕ちたはずなのに何故か堕ちることが嬉しい。地獄一定の私であったことを聞かせてもらいました。

永い間、阿弥陀様にご苦労をかけてきたことが同時に知らされます。その時はどうやってご飯を食べたかも覚えていません。2~3日は夢遊病者のように過ごしました。胸を叩いても返事がない。その時にふと、大西先生に前に聞いたことがある「抜苦与楽、転迷開悟」の言葉が浮かんできました。その時ただお念仏が南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と湧き上がってきました。

1週間、ご主人の勝廣さんには黙っていました。その後、聞かせて貰ったことを打ち明けると、ご主人は、先を越された!と真っ青になったそうです。その後、勝廣さんは、名古屋の伊藤友一さんのところでの法座で聞かせてもらいます。

悦子さんは、大きな幸せをいただいて、これは人に勧めずにはおられない、伝えずにはおられないとの思いを強くします。悦子さんが聞かせて貰ったのが平成6年(1994年)のことですから、今年は令和4年(2022年)になり、あれから28年になります。

今年、華光誌八十周年記念行事があり、悟朗先生の奥様、行子様のご法話があり、是非伺いたいと久々に華光会館に勝廣さん、高山のご同行とお参りしました。

高山では悦子さんにお会いしたことはありましたが、会館では初めてお会いでき、今回の貴重なインタビューとなりました。

第90回 東悦子さん 中

悦子さんは22才のときに、26才の勝廣さんと結婚します。彫刻家のご主人の手伝いをします。お弟子さんが多いときで4人おられ、住み込みの人もいて皆の昼食を賄います。主人や弟子のため朝座は半分くらいしか聞けません。そこで、何時も今しかないと大西先生に聞きます。ご讃題は頭に入れ、空で味わえるようにして口を開け質問などします。

大西先生にお味わいを述べると、まだそんなところにいるのか!と叱られたり、ようそんなふうに聞いてくれたと喜んでくれたりします。悦子さんはその意味を分析しますが、わかりません。悦子さんが40才を過ぎた頃から大西先生の体調の関係で、高山に来れなくなってしまいます。中途半端になってしまいました。雑行雑修自力の心を捨てるというのが分からない。お母さんとあっちの喫茶店、こっちの喫茶店に行って話し込みます。

そんななかNHKの『心の時代』に増井悟朗先生が登場されます。平成6年1月23日の放映でした。1月23日は早川先生のご命日でもありました。題は「求め、捨て、転じられる」です。「捨てる」と聞いてビックリして、便せん8枚に、今までの求道の道程、今の思いを書き、悟朗先生に送ります。

悟朗先生は、高山に素晴らしい善知識が二人もおられた!と喜ばれ、悦子さんはテレビを観て獲信したと勘違いされます。その手紙は華光誌に載ります。4月の永代経には「是非、来て下さい」ということで、悦子さん、悦子さんのお母さん、ご主人の勝廣さんの3人でお参りましす。

その晩、信先生の「一歩、踏み出しなさい」の一言で、母はワーッと泣き崩れ、いただかれます。お母さんは一睡もせずに一晩あかしたそうです。

最後の全体座談で、悟朗先生は、悦子さんの手紙を持ってニコニコしています。どなからでもどうぞと言われ、「先生!」と手を挙げます。

 

第89回 東悦子さん 上

岐阜県高山市の東悦子さんです。彫刻家の東勝廣さんの奥様です。お母さんが念仏者で小さい頃から両親と一緒に法座に参っていました。悦子さんがお腹にいる頃からお母さんは法座に通っていました。

当時は、早川先生の法座があっていました。早川先生は、死後の世界があることに驚き、後生の一大事の解決を求めて、会社を退職して求めたそうです。法が詰まってきたとき、大根のつけものの一番いいところを食べようとして、わが身が知らされ、泣き崩れ、聞き抜かれます。

悦子さんは、小学校5年生の頃より近所のお姉さんと、早川先生の法座の追っかけをします。悦子さんは御法を聞きたい一杯で求めていきます。

中学校卒業後、岐阜県大垣市に就職します。その後、22才の時、東勝廣さんと結婚します。その翌年、早川先生はお亡くなりになります。讃岐の大西先生に聞きなさいと遺言されます。高山のある同行が富山のお寺にお参りした際に、たまたま大西先生の法話があり、高山でのご法座をお願いします。二つ返事で高山に来られ、最初は大きなお寺の本堂が一杯になるほどの聴衆でした。

大西先生の場合、6才でお母さんを亡くし、心の親と会うために、寺に入って教学しながら求めます。布教しながら自らも求め、大きなお寺で布教した際に、一緒に求めていた法友を見かけ、その態度に先を越されたと思って、法座での話す言葉がなくなり、お参りの聴衆に対してどう解決するんですかと尋ねます。誰も応えないので頭を下げ御免こうむりますと、法話をせずに帰ってしまいました。

そのまま「やっさん」というお爺さんのお家に足が向き、そこで目の悪いお婆さんから薄っぺらい座布団を勧められます。そこで、その薄っぺらい座布団が、高くて高くて、その申し分のなさに泣き崩れます。一晩中、泣き明かしたそうです。その時、大西先生は29才でした。

その大西先生は、それから年に4回、5日ずつ高山に来ていただけるようになりました。その後、同行は20名くらいに減っていきますが、10年は続きました。

 

第88回 松井亮さん 下

2020年より、東京・高山の支部法座、華光会の本部法座と参加し、求めていきます。本部法座では、私の分級にも何度か来ていました。思い詰めた感じで、いろいろとお勧めをしてもなかなか聞き開けません。仏壇の前でお念仏して、そこから離れなくなったこともあります。昼食時間となり、皆さん食事に行きますが、松井さんは仏壇の前で涙して、離れようとしません。対応に困り、瀧山さんに来てもらったこともあります。

2021年の秋に真宗カウンセリングと「聞法の集い」に5日間連続の聴聞に参加します。そこでのサイコドラマでは、自分が求道者の役となります。サイコドラマはアドリブでそれぞれの役割を演じていきます。松井さんはセリフなしで求道者の声を表現しなければなりません。そのワークの最中に聴こえてきたのは、阿弥陀様に向かって「どないせいちゅうねん!」という声です。自分の腹底を叩いたらこんなものしかでてきません。

同年10月1日に祖母が亡くなります。自分の行き先を示してくれたと感じます。また12月には高山の舟本兄弟のお母さん民子さんが往生されます。仏法聞けよとの鈴がつけられます。

2022年の4月の東京法座の座談で、「聞けん、聞けん」と言っているのは、阿弥陀様に向かって「修行が足りん」と言っているのと同じだ!と言われ、その言葉が入ってきます。1㎜も聞いていなかった、これからも聞かないと知らされます。

ご示談が終わった後、皆さんから「良かったね」と言われますが、あれだけ握るなと言われていたのに、何がいいのかわかりません。ただ念仏だけが止まりません。信先生と一緒に帰っているときも、地下鉄で大きな声で念仏を称え続けます。信先生も相当恥ずかしかったそうです。

自宅に戻った後、『仏敵』を読んでみると読み方が全然違います。そのまま入ってきます。わからんけど、うれしい。ボク一人のために阿弥陀様が働いてくれていたんだと、ポカーンとしている松井さんです。

第87回 松井亮さん 上

1990年生まれの32才です。岐阜県飛騨市の出身で、地元は映画『君の名は。』の聖地になっています(岸惠子の『君の名は』ではありません)。

小中高では、県大会で優勝するほどサッカーに熱中します。高3でサッカーを卒業し、半年間集中して特に英語を勉強し、2009年富山大学に入学します。大学では麻雀、酒で過ごし、単位はボロボロで歩く自主休校と言われます。

大学3年時に就職活動のためパンフを取りに行ったときに、キャンパスで美人に声をかけられます。彼女と別れたばかりで、S会の勧誘について行きます。2011年に入会してからは部室に入り浸りのめり込んでいきました。2013年S会系の設計会社に入社。測量をして図面を引きます。S学会の仕事を請け負い、納得できずに退職します。

2016年飛騨の家具屋さんに就職し、周りは喜びますが、なんと東京勤務となります。東京勤務1ヶ月目に奥さんと出会い、2018年に結婚。東京においても、後生の一大事の解決はできません。両親をS会に誘いますが、ネットでS会の批判サイトを見て、とても怒られます。そんななか嶋田さんの『私の白道』を読み、華光会の存在を知り、S会を脱会します。

2020年からのコロナ騒動により、現在の広告関係の仕事がボロボロとなり、同年4月からの休業要請もあって、することがありません。仏法を聞かなければと思いますが、華光会に行っても何を言われるんだろうと躊躇します。2020年9月に高山支部法座に参加します。慶んでいる人が多いらしい。舟本賢也さん、大坪逹也さん兄弟と遇います。大坪さんは高校の大先輩であることがわかり、馴染んでいきます。

コロナ禍のなか、増井信先生、舟本さん、大坪さんとお酒を飲みながらのお話もしました。法座で号泣念仏をしますが、信心決定ではありませんでした。むなしくなってきます。信心をつくっている自分がいました。これではダメだと思います。

第86回 鍋嶋証子さん 下

天草の金子岩彦さんは伊藤康善先生の時代から仏法を聞かれており、お父さんである若栄先生の法友でした。金子さんが余命3ヶ月となったときに、どんな心境なんだろうと気になります。剛信な方なので、死ぬ前も安心なのかなと想像します。そこで、自分はどうなのか? 喜ばしてもらったと思っても、もや~とします。

あの時聞かせてもらったからと思っても、判らないから考えてしまいます。堕ちる身なのに、登っていこうとするから不安なんだなと思い至ります。自分はウソ、だから仏様は真実なんだと腑に落ちました。

2012年9月の親鸞聖人750回大遠忌での記念パーティでは、うちの家族とAKBを踊ってもらいました。そのために私の自宅で合宿までしました。朝起きて歯を磨いていたら、証子ちゃんが普通に洗面所に入ってきたのにはビックリもし、感心もしました。

翌月の10月に、なんと「NHKのど自慢」に出演したのには、驚きました。あれだけさらけ出して全国放送で歌えるとは! ほとほと感心しました。家族みんなで生中継を見て、爆笑、また爆笑でした。

4年前に結婚し、3才の法弘くん、1才のりんちゃんに恵まれています。法弘くんは、私の法名の釈弘法(しゃくぐほう。こうぼうではありません)に似ています。旦那さん、ご両親、妹さんご夫婦とも、皆さんにとてもよくしてもらっているそうです。人徳でしょう。

最近は、子育てと4月から小学校で仕事を再開したこともあり、なかなか法座に参加することができません。コロナ禍でZOOMでの参加が可能となり、メーリングリストにも書き込んでいます。自分だけの味わいだけで満足していては、もったいないと増井信先生、求道仲間だった金山玄樹さんに言われています。自己満足では、せっかくの仏法を小さくしてしまうと、証子ちゃんの現在の心境です。

第85回 鍋嶋証子さん 上

熊本市の証子ちゃんです。同市の本願寺派蓮光寺で生まれ、2022年に39才になりました。学生時代、華光会館に下宿していたお父さんの厚東若栄先生は、食事中も仏法の話しかしないような方でした。小学6年から華光会の子ども大会に参加するようになります。夏休みに行われる合宿で、キャップファイヤーなど楽しい行事などがあります。お陰で、全国にお友達もでき、毎年の楽しみとなりました。

遠藤惟紗子さんと親友になり、惟紗子さんが求めている姿を見て、触発されます。高校3年まで毎年、参加しました。その後、京都女子大学に進学し、大学4年間と卒業後の小学校教諭で4年間、計8年間を京都で過ごします。その間、華光会館で求道します。ご本人によれば「ザ・求道」だったそうです。「どうしたら信心が得られるんだ」と求めていきます。いわゆる「信心決定病」です。

証子ちゃんが14年前に書いた「体験記」を読むと、前に出ての号泣念仏は数知れず。仏青のメンバーと競争のように求めていきます。そのうち、一人が獲信したようになって、その喜び方が尋常ではなく、うっとうしく感じます。その間も、ズーッと「どうしたら」が抜けません。

座談で自分の心境を話しても、ズレていると言われます。仏青のなかでの恋愛関係、人間関係でドロドロとなり、仏法とゴッチャになってしまいました。あの人には会いたくという醜い感情を見せつけられます。人間関係でいっぱいいっぱいになってしまいました。

ところが、松岡先生の座談で、求める心はいいと思っていましたが、それこそが仏敵だったと知らされます。全部いらなかったんだ。ジャマしていた。獲信とか喜びとか、自分にはそんなバーンとしたものはない。求道と思っていたもの、求道ごっこが終わりました。終わらざるを得ませんでした。自分が思っているような信心決定はない。あったとしても自分が作り上げたものだと知らされます。

第84回 吉田晃子さん 下

華光会で求道して20年経過していましたが、令和2年11月の華光大会で、奈良在住の北島登美子さんから「私の信心とはちがう」と言われます。自分でもそう思え、薄紙一枚はがれていないような気がします。

令和3年3月に増井信先生に「このままで本当にいいのでしょうか」とご示談をお願いします。信先生は「吉田さんのおられる立ち位置をしっかり見て、あとは聴聞するしかない」とだけ仰ります。「あー、そうか」と増井悟朗先生の小冊子『疑心よさらば』を改めて読みます。信先生の小冊子も改めて読んでみます。今までも何度も読んでいましたが、改めて読むと「これだ!」と気付きます。

疑い心はほっとけ、自分は自分で信心する方に向かおう。後生の一大事を、そんなこともあるんかと先に置いていましたが、私みたいな凡夫が仏になるとは、と地獄一定がわかり、肩の荷が降りたように感じます。阿弥陀如来に対して恥ずかしい。全てお手回しだったと知らされます。私一人の阿弥陀様に遇わせていただいた! まさにコロナ禍のなかでZOOMではなく、リアルのご示談で信心をいただかれています。

吉田さんは、華光会の法座でよくお会いします。コロナ前の聞法旅行にはよく参加されていました。江原の古い同行さんですので、信心はとっくに得られていると思っていましたが、20年にわたる聴聞の後、まさに前年に頂いたことを知りました。やはり阿弥陀様は生きて働いておられると実感します。聞いたと思っても、その後の聴聞がつくづく大事と思わさせられます。

令和2年9月の永代経では、次女の光(ひかり)が、華光会館で皆さまの前でお話しをさせてもらいました。父親に対する気持ち、仏法を聴くということは親に従うということで抵抗があったということに、とても共感され、光に「私もそうだったのよ!」と声をかけられたそうです。それも知りませんでした。